「ごもく映画通信」Vol.14(1991年12月)より
笈底(きゅうてい)の北海道
変に難しいサブタイトルであるが、云ってみれば、永い間、私の本箱の底に日の目を見る事なく眠っている、北海道を主題とした映画の企画書やシナリオのことである。
北海道を舞台にした映画は数多く立案され、製作されている。私にとっても北海道は絶ち難い魅力の大地であった。
それは自然の美しさは勿論、その厳しさ! 美しくも厳しい自然の中に生き続けなければならない開拓生活への勇気と希望と挫折──そして男女の愛憎──。
正確な記録は残っていないので思い出すまま並べてみると、最初に『知床物語(仮題)』がある。脚本は山口英雄氏のオリジナルであった。すでに第一稿が完成し、改訂稿に入る直前の中止であった。知床半島の原生林の素晴らしさがジャーナリズムに取り上げられ、開発に関する記事も人目を引き始めた頃、筋立ては忘却の彼方であるが、主要人物の一人である牧師が泥んこの道を馬車に乗り、苦心惨憺、開拓村へ向かう場面は、今でも思い描ける程である。
黒澤作品『夢』の一場面、海に迫る断崖を探して知床半島を廻った時、フト、あの映画が実現していたら、何十年か前に、この辺にカメラを据えていたかもしれない、との感慨が胸の奥底をかすめていた。『夢』の中の断崖は結局、知床から伊豆三宅島まで探し求めて、撮影条件に叶った三宅島の東海岸になった。
北海道に新しい農業を求めて入植した坂本直行氏が、実際の体験を基にして書かれた「開墾の記」と云う著作があった。早速、友人のプロデューサーと企画書を会社(東宝)に提出した。物語は著者が苦心惨憺の末、ようやく北海道の大地に定着、温かい家庭を持つが、初心の理想にはまだまだ苦難の道が続くであろうと云う筋であったと記憶する。我々はこれを徹底して、ドキュメンタリー形式で撮影しようと考えた。入植時の村の再現。雨漏り、雪漏れの借家の床を打ち抜いて、馬と一緒に寝起きする生活。初めて五右衛門風呂を手に入れた感激。開墾には何より大切な馬の死。村人達の協力と離散。やがて結婚。奥さんは峠を越えた漁村の出身。農漁村の自然の風景。
此処で私は素晴らしいワン・シーンを思い描いた。二人の若い夫婦が子供を連れて里帰りする。峠を下った処に泉がある。鮮烈な流れが白樺の林を抜けて、遙か彼方の海へ。辺りは一面の鈴蘭の絨毯(じゅうたん)。一家は峠越えの汗に、生まれたままの姿で水浴する。それはルノワールの名画「沐浴する女達」のような、より清らかな、ほほえましいシーンになる筈であった。しかし、企画の段階で姿を消した。
前述の『夢』でヴァン・ゴッホの麦畑を探して、富良野、美幌、女満別と、それぞれの役場の方々に隈なく畑や牧場を案内して頂いた。そしてますます近代化、大型化する北海道の農業経営を眺めるにつけ、私は三十年前映画化を試みた原作の時代の人達は今どうして居られるか、時の流れをヒシヒシと感じたことである。
響然と通過する列車の風圧にあおられて、大きく波打つ夏草。その夏草に埋もれて碑が一基。苔むした表面の文字は殆ど読み取れない。その謎を解くのがこの物語『鉄路の十字架』である。原作は北海道出身で「密猟者」で第十回芥川賞を受賞した寒川光太郎氏である。
明治十三年、小樽と札幌の間に初めて鉄道が開通した。その建設秘話。その最も難工事場と云われた、ハリス地区の岩場区間を請け負った二人の請負人の対立とその間に生じた愛と人間模様。そして北海道開発の至上命令を振りかざす開拓使とが織りなす冒険アクション物語である。五稜郭戦で負傷した武士あがりのドモ疵(きず)と、鰊場の網元、アイヌからも親方と慕われるニシバの権(ごん)──ニシバはアイヌ語の親方の意──の愛人をはさんでの確執。やがて頑ななドモ疵の心にも人間愛が目覚め、死ぬまで工夫として鶴嘴(ツルハシ)を振り上げ、自ら請負人として敷設した鉄路を守り続ける。その死の胸には銀の十字架が光り、腹巻きから「岩場工事殉職者慰霊碑建立基金」と書かれた書状と現金が発見された。
シナリオ化に際して、原作者寒川氏の許可は受けていない。当時映画化が実現して居れば、礼をつくして許可を受ける筈であったが、残念ながらその機会は得られず終わった。
その鉄路は今や津軽海峡のトンネルで本土をつないでしまった。時の流れは誠に変遷極まりない。
私の北海道に対するラブ・コールは遂に映画として実現する事なく、笈底に眠り続けている。しかしそれ故に、現在の北海道が私にとって身近な親しさを感じる基になって居ることは疑う余地がない。そして北海道の映画愛好誌「ごもく」の誌上で共に映画を語り合えることは、互いに映画が好きであると云う時代を越えた運命の糸で結ばれているからであろうか!!