ムービー夜話2

「ごもく映画通信」Vol.9(1991年7月)より

スタッフ以外のスタッフ

 『戦争と青春』(今井正監督)の撮影が予定通り進行しているらしい。小生と今井監督とは同年生まれであることはこの前に書いた。心から成功を祈る。『戦争と青春』は勿論第二次世界大戦の東京大空襲の東京都民の貴重な体験談の映画化である。その東京大空襲のオープン・セットの一部が富士山麓御殿場に建てられたと云う。此処御殿場は映画に関係ある我々にとっては、切っても切れない思い出の地である。思い出どころか、現在でもTV其の他映像撮影に無くてはならない土地である。
 世界に冠たる富士山は勿論だが、此処には旧日本軍の演習場があり、戦後は自衛隊や米軍が演習場として使用している。その広大な地域が自然の姿で残されているから、戦争や大群衆シーンや軍馬を走らせたりの場面は、ほとんど此処御殿場で撮影されている。黒澤監督も、「僕と御殿場との御付き合いは二十五才の時からだからね」と語る。助監督時代の『戦国群盗伝』から『七人の侍』、そして近くは『夢』『八月の狂詩曲』の一部も御殿場である。『夢』の鴉のゴッホの撥橋(はねばし)のオープン・セットは御殿場の演習場の隣接地に川を掘り、フランスのアルル地方の橋を再現した。その同じ場所に今井監督の『戦争と青春』の東京大空襲のオープン・セットが建てられたと云う。今東京近辺では、本格的な火事場のシーンを撮る事が出来ない。消防法で禁止されているからだ。『乱』の時の第三の城の焼け落ちるシーンも御殿場表富士五合目である。
 御殿場にはこうしたロケーションや、オープン・セットを建てる場所を紹介したり、探してくれる大ベテランの専門家が居る。長田孫作と云う老人である。老人と云っても小生と同年の七十九才だ。我々は青春時代からの御付き合い、つまり黒さんが二十五の時からと云う。その時分から御殿場のロケーションは長田一家を通して御殿場の人達との交流も続いている。長田家は孫さんの父親の時からこの仕事を引き受けて貰っている。今は義弟の静男さんとのコンビである。黒澤作品の台本にはスタッフの一員(御殿場班)として名を連ねている。併し本職は農業である。
 『戦争と青春』の東京空襲シーン。オープン・セットの話も、『八月の狂詩曲』の完成パーティで孫さんに聞いた話である。孫さんは今やNHKはじめTVの撮影でも、御殿場では無くてはならない人である。時々思い出話に、「昔は御殿場でも百や二百の馬は直ぐにも集められたが、今は農家に一匹も馬がいなくなった。集め様がない…」。その通りで、『影武者』の長篠の合戦は北海道勇払平原で、『乱』は大分県九重高原での撮影であった。北海道は競走馬の一大産地であるから、集め様と思えば相当数が集められる。併し、サラブレッドは集団行動を取らせるには訓練に相当な時間と根気が必要だ。『影武者』の経験から『乱』の時は生まれ乍ら集団で行動する習性のある、昔インディアンの愛馬であった、クウォーターホースと云う種類の馬を、カリフォルニアから九州まで直接空輸した七十頭を軸にして撮影が行われた。牧場のある北海道も、九州阿蘇も乗馬の出来る人の居る事が大変な条件であった。いずれにしても馬の撮影は益々難しくなる。アメリカの西部劇も姿を消しつつあるのは馬の数が揃いにくくなったのも理由の一つであると云われている。
 映画製作には、特に地方のロケーションでは孫さんの様な、普段は映画に何の関係もない現地の人達の協力がなければ、撮影は不可能だ。『影武者』では馬の買い付けから訓練、そして本番迄約半年以上現地の白井牧場を中心にお世話になっている。『夢』の鴉の麦畑は一年に渡る麦の作付け、育成、三百羽近い鴉の訓練迄みんな北海道女満別町の人達の協力と努力で成功した。私達映画人はこうしたスタッフ以外のスタッフの情熱に対してもいいかげんな映画は作れない。宿舎やホテルを含めて、映画はその土地土地の人達の親切にささえられてこそいい仕事が出来る、ということが身にしみて思い出され、感謝の気持ちで一杯である。