「ごもく映画通信」Vol.29(1993年3月)より
脚本(ほん)の面白さ!!
黒澤明監督作品『まぁだだよ』のメイキングの監督、吉村健太郎君が総仕上げに、黒さんに最後のインタビュウをするという時に、たまたま遊びに行って同席することになった。
吉村君はコマーシャルで多くの作品を発表している映像監督である。十数項目の質問事項を用意し、一つ一つに黒さんが答えていく、楽しいインタビュウであった。
その第一項目に、「黒澤さんの作品はどうして面白いんですか?」という質問があった。黒さんはいきなりそう言われて、当の本人として、一瞬どう答えていいのか戸惑ったように隣の僕の顔を見た。僕は質問の真意は充分判ったが、「それは面白いと感じる諸君に、監督の方から聞きたい質問じゃない?」と言った。「それはそうですが……」ということで笑いになった。ややあって黒さんは、「そうだなァ、色々あるだろうけど、脚本(ほん)かな」と言って、黒澤流脚本の作り方を語り出した。
映画における脚本の大切さは、映画製作の発達と共に語り継がれ、書き積まれ、その著書も日本だけでも四、五十種類は下らないのではないだろうか。シナリオ講座という催しも、毎年全国ではどれだけ開催されているだろうか。これほど映画にとって大切な脚本でありながら、良い脚本、面白い脚本がなかなか生まれないのは、その作り方の技術や形式の問題ではないようだ。
黒さんはいわゆる脚本の箱書きを一切しない。もちろんメモや覚え書き的ノートは資料整理のため書き留める。しかしシナリオ作法などにある、ファーストシーンからエンドまで一応組み立てる箱書きという方法は採らない。理由は事件の運び、流れが規定され、作り物になってしまう恐れがあるからだという。
『野良犬』という作品がある。時代は終戦後間もなく、警視庁の新米刑事がバスの中で拳銃を掏(す)られるという事件が起きた。そうしたらどうなるだろうか、という物語だ。話は新米刑事に扮する三船敏郎が徹底的に犯人を追いつめ、遂に逮捕に至る筋である。
ファーストシーンは警視庁の拳銃射撃訓練場から始まる。真夏の猛暑の昼下がり、前夜特別任務で徹夜となり、ほとんど寝ていない三船刑事の弾は標的を外れ、とんでもない木の根っこに当たるような惨憺(さんたん)たる成績であった。くしゃくしゃした気持ちで乗ったバスの中で、中年の女性の安香水の臭いに悩まされる。やっと女が降り、ほっとして気がつくと拳銃がない。慌ててバスを降りると、いきなり逃げ出した若い男がいる。後を追う三船……。
さて、ここからが黒澤作品の脚本の面白さの秘密というべき点である。時代の考証、社会情勢、舞台となる場所の選定、主人公の職場の研究。『野良犬』では警視庁の編成、人員配置、科学捜査の研究、その応用方法等々。主人公以外の出演者の生活の洗い出し、掏摸(スリ)の研究。つまり映画の画面に表現されている人物は氷山の一角であり、水面下の部分、人物の性格はもちろん、日常生活もしっかり把握する。そのことが出演者一人一人の存在感を生み、最も適切な台詞も生まれてくる。さて、拳銃を掏られた三船刑事は、一体どういう行動を取るか? 責任感の強い彼は、自らの職を賭す覚悟で、まず直接の上司への報告を行うだろう。
黒さんは「自分ならどうする」という、常に主人公の立場に立って事件に対処し、書いていく。ドラマは書き進むに従って展開していくのであって、たとえ作者であっても簡単に場面場面を作るべきではないと言う。作者が事件を作るのではなく、設定された主人公が行動することによって、次から次へと事件が転がっていく。時には作者すら気づかなかった新鮮な場面が生まれる。劇中の人物に教えられるのだ。
よく作劇法では、漢詩作法の基礎といわれる「起・承・転・結」、あるいは我が国の能楽の演技の基礎と伝えられる「序・破・急」を当てはめる論もある。しかし、黒さんの脚本の面白さは、始めからドラマをあらかじめ組み立てて書き進めるのではなく、事件が起きたその時点から実際に起きた事件として追及していくところにある。結果的には時間の芸術であるから、脚本として分析すれば「起・承・転・結」に、あるいは「序・破・急」に当てはまるかもしれないが、創作の過程ははまったく異なる。『野良犬』はそうした脚本作りの作品の中でも傑出した作品であろう。
結局、作品は脚本が最も大切な要素の一つであることは事実だ。しかし、名脚本を作るにはこうすれば間違いないという方法は存在しない。要は脚本を創作する人物に依ってくる。作者が映画の主題に対していかに真剣に取り組み、劇中の人物の生きざまと共に展開していく劇的リアリティーを創り出すかが問題である。
面白い脚本(ほん)は簡単にはできない。生みの苦しみが大切なのだ。