「ごもく映画通信」Vol.26(1992年12月)より
配役の妙
『まぁだだよ』(黒澤明監督作品)もいよいよ十一月完成の運びとなった。封切りは来年、カンヌ映画祭招待上映後の予定である。
昔の教師と教え子という関係の間で、社会人になってもなお続いた温かい人間ロマンの物語である。
劇映画では演技者を除いて物語は成立しない。黒澤作品の場合、シナリオ段階で既に黒さんの頭の中に、この主役は何の某(なにがし)と演技者がイメージ・アップされている場合と、筆を進めている間にイメージの人物と実在の演技者とが重なり合って来る場合があるらしい。今回の『まぁだだよ』の内田百閒先生は後者のようだ。現在の演技者の中でこの内田百閒先生は松村(達雄)を置いてほかにないと、確信を持ったという。
松村さんは昭和四十五年の作品『どですかでん』で京太という特異な役を演じている。黒さんは肉体的条件よりも、松村さんの中に黒さんの描き出す、スクリーン上の百閒先生が創造されていった。あるいは創造される可能性を掴んだというべきだろう。百閒先生の写真集を参考に、年代順にメイキャップ・テストを積み重ねる。その度に松村さん自身の役作りが、ジワジワと出来上がっていく。毎回あらゆる角度からスチールを撮り、検討する。
その作業を繰り返すこと四回から五回。三か月余り続く。その度に扮装してのリハーサルが行われる。もちろん松村さんだけでなく、主な配役の役作りは、同じ方法で行われる。
こうして撮影に入るまでには重要なシーンのリハーサルが納得いくまで続く。こうすることによって、出演者の作品に対する理解は六、七分通り固まってくる。
黒澤組の場合、リハーサルとリハーサルの間に必要な日数を置く。それには演技者が役作りの時間を持つという重大な意味がある。その間、他のスタッフの準備がよりコンプリートになされるのだ。
そしていよいよ撮影入りを迎える。セットの場合はカメラを据え、本番と同じ状況でのリハーサルが行われる。実際のセットとそれまでのリハーサルでは動きが全然違ってくる。広さも小道具も雰囲気も違う。そこでもう一度リハーサルに時間をかけ、改めて翌日新鮮な気持ちで本番ということになる。
こうして準備に時間をかけることが、結局演技者にも裏方にも好結果を生む。カメラが廻る時、本番の時の疲労や倦怠からは決していい結果は得られない。
黒澤組の場合はほとんどワンシーン、ワンカットである。一つの場面で五分や十分のシーンはざらだ。今回も百閒先生のユーモラスな話し振りの場面がたっぷりある。物語が進むに従って、松村百閒先生の演技は冴え渡る。見事である。弟子の一人として出演中の所ジョージ君が試写を観て、
「こんないい役を貰い、こんな素晴らしい演技のできた松村さんに演技者として嫉妬を感じます」
と言った。監督がこの人ならできると白羽の矢を立て、それに見事に演技者が応えた嬉しい実例である。
一度はこの役の重さに、健康上の理由もあって辞退を申し出た松村さんに、
「絶対に君ならできる。難しい役だが取り組んでみようじゃないか。健康に関しては十分注意しながらやろう」
と説得した監督の炯眼(けいがん)と、松村さん自身の演技者としての熱情が、立派な松村百閒先生を創造した。
黒澤組ではカメラは常に二台から三台使用される。スクリーンでは三台分のフィルムが編集されるので、カット数は何カットにもなる。そして演技は同じ演技であるからA、B、Cのどのカメラからどのカメラに切り替わっても演技のリズム、流れは淀むことはない。演技者にとっては一場面、一場面、感情を中断する必要がなく、充分に演技することができる。その成功作品の一つが今回の『まぁだだよ』である。
この撮影方法は確かに黒澤作品の一つの特徴になっている。
さて、ドラマは主役だけで成立しないことは言うまでもない。主役を取り巻く助演者の重要性は、時に主役以上の場合もある。『まぁだだよ』では百閒先生の教え子の代表として、いつでも行動を共にしている四人の門下生がいる。井川比佐志、寺尾聰、油井昌由樹、所ジョージの諸君である。
所君は初めての黒澤組出演だが、他の三人は常連と言っていい。四人それぞれの特長を熟考しての配役である。リハーサルを重ねるにしたがって、各々の心の中に役の生活基盤や職業の設定が定着。百閒先生を通じて学生時代からの友人関係の心の通い合いが互いの中に醸し出されていった。そして黒澤組の経験者三人に所君という新しいキャラクターが加わったことによって、我々スタッフから見てもまことに新鮮なコンビが誕生した。配役組み合わせの妙である。井川君の中心的人物の役、所君の底抜けの明るさ、油井君の陰の実行力、寺尾君のほのぼのとした温かさ。寺尾君の役はいつも四人一緒に行動していながら、全編を通して台詞が一言もない珍しい役である(寺尾君は台詞はないが、ナレーションで声を聞かせてくれる)。
そして最も重要な役・百閒先生を支える奥さん役に、香川京子さんが久々の黒澤作品への出演である。香川さんは次の黒澤作品──『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『赤ひげ』『どん底』に、どれをとっても難しい、性格の異なった役で出演している。そしてどの役も立派にこなしている。その間に香川さんは間違いなく、黒澤演出の役作りの心構え=神髄を学んだことと思われる。たとえ本人は無我夢中であったとしても……。今回の作品で香川さんは脚本を手にし、百閒先生の奥さんをと言われた時、すでに監督のこの役に対して意図するところと自分に対する期待をはっきりと受け止めていたのである。撮影中監督から役の内容についての注文や注意は一度もなかった。監督は安心し切ってまかせっきりであった。
絶妙の監督と演技者の阿吽(あうん)の呼吸である。先生と門下生の愛情と尊敬で交わされる会話を、それぞれの心情を感じ取りながら聞いている奥さんの、穏やかな表情は素晴らしい。
「香川君の芝居、良かっただろう? 僕は香川君の芝居は見てないんだ。今回は安心して任せられる」
黒さんの一言である。香川さんにとっても前四作の峠を通り越して、到達し得た思い出の役となるであろう。
四人の門下生のほかに、先生の誕生日に馳せ参じる多数の門下生や友人知人が出演している。『影武者』以来参加する「三十騎の会」のメンバーと各劇団から参加してもらった人たちで組み立てられた。
結婚式やパーティのシーンは難しい。元来日本人の宴会は、酒が入らないと通夜のように静まり返り、酒が入れば乱れに乱れて乱痴気騒ぎでおしまいである。『まぁだだよ』では、本当に百閒先生の人柄と作品を愛する同じ心情を持った人たちが一年に一度、先生を囲んでのパーティである。和気藹々(あいあい)、楽しい雰囲気の漂う中に一種の規律のあるパーティがねらいであった。出演者の諸君にもその意図を十分に理解するよう要求された。そのため、リハーサルでも本番と同じ三台のカメラが所定の位置にセッティングされ、料理や飲み物も同様に準備し、もちろん出演者はいつカメラが廻ってもいい扮装をして行われた。
こうしたリハーサルを重ねることによって、演技者だけでなくスタッフも百閒先生の誕生パーティの雰囲気に溶け込み、セット全体の空気が充実して来る。ラストのリハーサルではそのまま本番でもいい状態でありながら、より新鮮な気分で撮るため、本番は翌日に回された。
配役の大切さから役作り、そして大勢の役作りともいうべき大衆シーン──今度の場合は一般にいう大衆シーンとは違うが、しかし百人近い演技者が一つのシーンを構成する時、いかに一人一人の心構えが大切か、また、演出者はいかに色々な点に心を砕くかの一例として書き留めた次第である。
この作品だけでなく、映画を観る時、あるいは観終わった時の参考になれば幸いである。