「ごもく映画通信」Vol.24(1992年10月)より
野良猫の飯
黒澤明監督作品『まぁだだよ』も今や最後の追い込みに入った。名文でも名高い故・内田百閒氏の原作を土台にした作品である。もちろん百閒先生が主人公であるが、実録・内田百閒伝ではない。あくまでも黒澤作品の内田百閒伝である。
題名については二転三転した。『先生』→『人間教室』→そして『まぁだだよ』に落ち着いた。内田百閒は初め芥川龍之介の推薦で海軍機関学校のドイツ語の教官となり、のち陸軍士官学校へ転じ、教壇を去る頃は法政大学の教授であった。退職後も先生、先生と慕ってくる教え子たちが、それぞれの学校を卒業し実社会で活躍しながら、ますます百閒と人間的交流を深めていく明るくもユーモラスな物語である。もちろん、実際に百閒先生と親交のあった人たちは、学校の教え子ばかりではない。出版社、新聞、報道関係の人たちも教え子以上に沢山おられた。それらの人たちも同じくいろいろな意味で、百閒先生の人間的魅力を愛した。その意味では題名が『先生』や『人間教室』ではそのものズバリだ。ズバリ過ぎて面白みがないともいえる。
『まぁだだよ』に決まった理由は、物語の中で百閒先生六十一才の誕生日を機会に、毎年先生を囲んで大々的に友人や知人、教え子が一堂に会して祝杯をあげ、大いに旧交を温めようではないかということになり、その会の名前が「摩阿陀会(まあだかい)」と決まる。これは子どもの遊び、鬼ごっこから来ている。
「もういいかい?」
「まぁだだよ」
つまり先生にはいつまでも「まぁだだよ」と長生きをしてもらいたいという主旨である。
さて、百閒先生の作品に「ノラや」という、いなくなった飼い猫を主題にした作品がある。『まぁだだよ』でも百閒先生の猫に対する異常なまでの愛情シーンが描かれている。
映画に動物が出演する時の苦心に関しては、本誌「ごもく」誌上に紹介したことがある。『夢』の時の北海道女満別ロケで、カラスを集めて三か月飼育したこと。同じく『夢』の中のトンネルの軍用犬。『八月の狂詩曲』では、蟻の撮影に大苦心をした話。今回も猫に関しては同じ美術係(小道具係)と助監督がいろいろと苦労の末、撮影は大成功。御期待ください。
表題「野良猫の飯」の野良猫は、映画のそれとはまったく別の猫である。しかし小生にとって無関係とはいえない。『まぁだだよ』の脚本を書いている時から猫が大切な役であることがわかり、「そのねらいどおりの猫がいるか?」「猫は犬のように訓練できるか?」という研究が始まる。たまたまその時分のある朝、我が家の勝手口に生まれて三、四か月の子猫が物欲しそうに中をのぞいていた。女性たちは「まァ、可愛い」とさっそく食べ物をやっている。白黒の虎ブチである。脚本の中に出てくるノラは茶色の虎であるから条件には合わないが、猫の生態研究にはなると思って、食事を与えることに反対しなかった。我が家のペットは長年小型犬で室内で飼っているので、この野良を家に入れるわけにはいかない。
一度食事を与えたら、毎食事のたびに顔を出す。これは野良猫の証拠である。食事を終わった後はガラス戸の外にピッタリと身を寄せて、のうのうと寝ている。近頃は中から犬が吠えようが、ガラスをガリガリやろうがビクともしない。ここは俺の家だと言わんばかりである。いや私というべきか。ミーは牝だからである。家内や娘が食べ物をやる時、「ミーや」と声をかけると、か細い声で「ミィーッ」と鳴く。いつの間にかミーと呼ぶことになった。朝の食事は早起きの小生の受け持ちである。猫の習性を知るためには絶好の機会だ。まず二、三日中には手から直接食べるように手なづけようとしたが、ついに成功しない。野良の野良たる所以(ゆえん)である。
どんなに可愛がるふりをして食べ物をくれても、家の中に入れてもくれない。スキンシップもしてくれない人間なんて信用できるかと言いたそうだ。家内や娘には顔さえ見せれば「ミァ~」と鳴いて甘えるのに、小生にはよほどひもじい時以外、鳴いてみせない。女性は可愛いとなったら可愛いのだ。すきを見つけて家の中へ入り込めばもうこっちのもの。絶対追い出したりできない、と見抜いているようだ。男は違う。変に食べ物を変えてみたり、食器の置き場を変更したり、いやに雨や嵐の日の行動を観察している。まさか暴力をふるって三味線屋に売るようなことはしないだろうが、油断はならないと言わんばかりである。
一方、猫の出演シーンの撮影が近づくと、スタッフ・ルームでも猫の情報交換が盛んに行われる。小生と我が家のミーの行動について知り得たことを話し合った。百閒先生の自宅のセットが出来上がると、猫がセットに慣れるために係の人たちが何時間もセットの中で遊んでやる。猫をいかに安心させるかが決め手である。こうして、『まぁだだよ』の「ノラや」の撮影が順調に終了したことは前に書いた。出演の猫たちもそれぞれ愛猫家に引き取られていった。幸せである。
さて、我が家の野良ミーであるが、相変わらずで、食べ物の贅沢さには驚かされる。いや、猫にとっては当たり前のことだろうが、まず一番美味しいものから食べる。それで腹がいっぱいなら残しておいて後で、などとみみっちいことは言わない。外の猫が来て食べているのを見ても平気で食べさせている。その猫は牡で、明らかに飼い猫である。首には立派な首輪を付けている。首輪は付けていないが、そういう猫がほかにも二、三匹いるようだ。いずれも丸々と太っているが毛並みは薄汚い。そこへいくとミーは貴婦人だ。暇さえあれば毛繕いしている。
ミーの我が家での初めての食事は、牛乳をたっぷりかけた食パンであった。ミーはガツガツ食べた。それが今ではこんな食事には見向きもしない。ミーが我が家に現われる二週間程前、隣に住んでいたアメリカ人夫妻が猫をもらったので、注射をしてきたと家内に話したことがあった。我が家ではその猫の名前もその姿も確認しないまま、急に夫妻は引っ越すことになった。転居先はマンションだったので、泣く泣く置いてゆかれたその猫という可能性は十分にある。
しかし、その後ミーはまったくの日本食になった。肉は好まない。魚の頭が大好物である。が、骨の食べ方が下手だ。魚の骨で思い出したが、私の先生・山本嘉次郎監督は飼い猫のチョロ松に魚の骨をきれいに取って肉だけ食べさせておられた。動物をペットとして飼う以上、ここまで面倒をみなければいけないという心構えかもしれない。
もう一つ、ミーと牛乳。我が家には牛乳が二種類入っている。小生は普通の牛乳は薄すぎて駄目なので、少々濃い牛乳を飲んでいる。一度その濃い牛乳をやったら、なんと喜んでピチャピチャやっている。昔、鮭の塩辛いのを「猫またぎ」といって、猫も食べない、とまずい物の代名詞にされていた。牛乳にも「猫またぎ」があるとは恐れ入った。
ミーよ。かりに野良であろうと、自分の好きな物を探し求めて、たらふく食べて堂々と生きていけ。同じ時期に生まれた『まぁだだよ』のノラは、スクリーンで百閒先生の異常なまでの愛され方をして、長く多くの人々の涙を絞るだろう。ミーはしばらくは今までどおりの生活が続くかもしれないが、お前の生活情況はノラの撮影にいくらかの参考になったことは確かだ。満足してもらいたい。