土屋嘉男様 本多監督との思い出

 本多さんに初めてお会いしたのは、私が黒澤さんの『七人の侍』に出演中だった。
当時私は黒澤家に居候をしていた頃で。本多さんは時々黒澤邸に遊びに来られた(昭和28年頃)。
お会いする毎、本多さんの温かいお人柄を感じた。
本多さんと黒澤さんは共に山本嘉次郎監督の元で助監督として若き日を過ごし、共に映画人生を歩きはじめたのである。そのためか、二人はまるで兄弟のように仲睦まじかった。それは晩年まで続いていた。

 ゴジラの本多さんは、特撮の円谷のオヤジ(円谷英二監督)と共に、世界を股にかけてゴジラをノッシ、ノッシと歩きまわらせた。
私はかねてより、作品にとても興味があり、『地球防衛軍』に出演したのだが、作品ではひと癖もふた癖もある役を好んだので、宇宙人の統制官が出て来るので、その役を希望したところ、カプセルをかむって顔がよく見えないから駄目だと会社から言われ、「俳優は顔が見えればいいというものではない」と押し切ったところ、本多さんが非常に感激して下さり、それ以後真の心のお付き合いとなった。
おかげで、映画愛好家の間では、今なお、日本人で最初に宇宙人を演った人、と言われているようである。

 以来私は、黒澤映画ではストイックな役をやり、本多映画ではひと癖もふた癖もある役をやり、その間を行ったり来たりしていた。
奇しくも、本多映画と黒澤映画は今なお海外でも大事にされている。

 黒澤さんが「怒りの人」なら本多さんは「微笑み」の人だった。
本多さんの誕生日には毎年俳優たちが本多邸に集まり、賑やかにバースディパーティーをやった。
本多さんは北国の民謡をよく唄ってくれた。その美声は朗朗と響き、今も私の耳に残る。

 本多さんと最後にお会いしたのは、九州古湯の映画祭だった。
二人とも招かれ、講演などをやったが、そのあいた時間に私は吉野ヶ里遺跡を見たかったので本多さんをお誘いし、二人でのんびり見学などして歩いた。
それが永久の別れとなってしまった。

土屋嘉男