無冠の巨匠 本多猪四郎(第五回)

 永遠の科学少年

 兵器と一体になった自衛隊の、整然たる作戦行動を緻密すぎるほどに細かく描写する本多演出は、今もメカマニアの観客たちの胸を熱くさせる。
 実は本多さん自身、当時最先端技術だった活動写真へのメカニック的興味から映画に目覚めた人だった。
 大正から昭和にかけて「科学こそが国の礎になる」と謳われた時代に本多さんは少年期を過ごした。彼は科学少年の世代なのだ。
 鳴海さんとともに本多監督に私淑した中島紳介さんは、プライベートでは常に最新の科学情報の話をする本多さんに驚いたという。
「子どものころから科学雑誌を読み耽っていたそうです。僕らが話してると必ず最近の話になる。電子工学とか。ビッグ・バン以前の宇宙とか。カオス理論とか。八十歳を越えた人間の話題がそれですよ! もうビックリしました。新聞や雑誌の科学記事を集めていろいろ考えるのが好きな人だったですね」
 本多監督が自作でもっとも気に入っているという『妖星ゴラス』(昭和三七年)は、地球目指して接近する黒色わい星・ゴラスとの衝突を回避するため、地球自体をロケットで動かしてしまうというSFパニック映画だ。
 その、文字通り驚天動地の地球移動計画は、国連本部の科学委員会で検討される。
 「ゴラスが太陽系に侵入すれば四五日目には地球に到達します。それまでに地球は少なくとも四十万キロ以上の大移動を完了しなければなりません。これに要する推力は、六六億メガトン、加速度は1.1×10のマイナス6乗gであります」と、説明する科学者の後ろにある黒板に書きつけてある数式。これは本多監督が東大の天文学の畑中教室に通って割り出してもらった本物だという。
 そして、水爆の開発用に各国が極秘裏に進めていた重水素の研究を公開し合うことを科学者が提案し、国家やイデオロギーにこだわる政治家ではなく科学者の先導によって地球人の目的は一つになる。
 鳴海さんは、本多監督の映画を「科学者至上主義」と呼んでいる。
「主人は科学の先生の研究室に一ヶ月以上も通いつめていました」と語る奥さんによれば、本多さんが最も熱心に取り組んでいた映画は昭和三二年の『地球防衛軍』だったという。
 『地球防衛軍』はその名の通り、地球上に領土を占めた宇宙人を追い出すために世界中の人々が目的を一つにし、壮絶な総力戦になだれ込む大戦争SFである。
 特に後半は空・陸のありとあらゆる科学兵器のドンパチが延々と続き、メカマニアを狂喜させる。
「とにかく主人は、飛行機にしても、科学で動くものは大好きですからね。すべてがね。後に人類が本当に宇宙に行った写真が出たときに、まことに、何十年かまえに作った映画の宇宙と同じだったわけなんですね。やっぱりあのとき通った先生は確かな先生だ立派な先生だったって大喜びで。いつまでも子どものような人でした」
 嘘を見せたくないという実証主義以上に、本多さんは科学者と会うのが楽しくてたまらなかったのではないだろうか。
「いろんな分野の人から話を聞いて、それを頭の中で練り上げていくのがいちばんの醍醐味だったみたいですね。ああいうものは。やっぱり自分の目で確かめて、肌で感じないと、ある痴度納得ができないとだめだから、それだけ日数もかかったんじゃないかしら」
 下調べに時間がかかる特撮映画はそれでなくても大作なので、製作本数は限られてくる。そのことは生活にも圧迫を加えることになる。
「他人様は本当にゴジラがゴジラがって言ってくれますけど、ゴジラの後の貧しさ貧乏は身に沁みましたよ。笑っちゃうくらい質屋にも通いましたし。長い年月ね、一本のギャラで、オーバーギャラもなくて、必死にやって……。映画監督の会社との契約というのは、だいたい一年に一本が、食べられる最低線ですよね。二本撮れれば少し潤うわけです。で、一本もない年がありますね。そうするとその年にもらった給料は借金になるんです。芸者の置屋の契約と同じです。大作ってのは、監督はかわいそうです。けれども、金の話は主人には一切しませんでした。主人にはただただ映画を撮ってもらいたいと」
 当時は評論から無視されていたうえに、金も儲からなかった特撮映画の本編監督。それは、お仕着せの企画を、そつなくこなすだけの職人には続けられるはずがない仕事だったのではないだろうか。

切通理作