本当の主人公
『海底軍艦』の場合はムウ人だったが、本多監督は『地球防衛軍』のミステリアンや、『怪獣大戦争』(六六年)のX星人といった宇宙からの侵略者も、自らの優秀さと科学力を信ずるあまり、全体主義的になった悲しい存在として描く。
彼らの姿は、自由や恋を謳歌する地球人(戦後の日本人)の若者たちの姿と対比されることで、いつしか戦時中の日本人とダブってくる。本多SFの宇宙人は、過去の自分たちなのだ。
戦後の平和な日本に「戦時中」が現れる。『ゴジラ』第一作目もそうだったが、実は、本多監督の作品をよく見ていると、ほとんどすべてがその構造でできていることがわかる。原作者や脚本家はまちまちなのに。奥さんは「主人の映画は脚本としてクレジットされていなくても、全部自分で書き直しているんです」と言う。
しかし、それは、東宝という会社のカラーと明らかに違う。
中流家庭にアピールする都会的モダンさが身上の東宝映画は、若大将や植木等に代表されるような戦後的で陽性のヒーローが基本だ。 本多作品も例外ではなく、主人公には宝田明や三橋達也などが配された。ただ、それはクレジットの順位やストーリーの表面上のことにすぎない。『海底軍艦』でも、お話上の主人公は戦後世代(つまり観客の世代)を代表する若者、高島忠夫のはずなのに、見終わったあとは何の印象にも残らない。本多監督にとっての本当の主人公は神宮司だからだ。
本多監督の作品はどれも、神宮司のように戦後社会の現実といきはぐれてしまった者(ときにそれは怪獣や怪人自身であったりする)の物語なのだ。言い換えれば、本多監督の作品は、実はどれも同じその物語の反復である。次回の後編ではそれを検証していく。
本多猪四郎はけっして器用な職人監督ではない。華のあるスターが演じる戦後的でスマートなヒーロー像を快活に押し出しながらも、いつも地味なはぐれ者の方に重心を置いてしまう、むしろ不器用な作家だったのではないか。
そしてそれこそが、戦争は知らないけれど、この現実社会でスマートに生きられず、人間関係よりはメカのほうが好きな怪獣ファンたちを虜にして放さない魅力かもしれない。(「下」に続く)
切通理作