父 本多猪四郎の思い出

本多 隆司

私の中に二人の本多猪四郎が居る。
父としての本多猪四郎、そして映画監督としての本多猪四郎だ。

正直、父としての猪四郎の記憶は少ないと思う。

幼児期の思い出

七伍三のお祝いに明治神宮へ父と二人で行った。これ自体が既に問題であったはずだ。
戦争以外には成城の自宅と撮影所の行き来がほとんどである父、それ以外に外出をすると言えば映画館に行くか上野の美術館へ行くかしか私の記憶にはない。
そんな父になぜ大切なお祝いを頼んだのか?未だに疑問である。
失敗は数日後に上がってきた写真で判明した。
なんと全ての写真に父自身が主人公と共に写っていたのである。

父は細かい事をするのが好きだった。(自称科学少年)此も自分だけが勘違いをしているのであるが。
側にある物、例えば時計、秤、ラジオ、ちょっと具合が悪くなると直ぐに分解しちゃうのである。
至る所に分解された機械(?)が転がっているのを覚えている。
最後までは直らないのである。
そんな幾つかの分解パーツを母に頼まれて再度、組み立て直した思い出がある。

映画には良く連れて行ってくれた思い出がある。
一日がかりである。朝九時頃に家を出たはずだ。
一言も話さず、私はただひたすら父の後を付いて電車に乗り、着いた所は上野だった。
当然の事ながら楽しい動物園が頭の中を駆けめぐり、足は地に着かない程の期待感で胸が高鳴ったのを今でも憶えている。
が、その期待は数分後に打ち砕かれたのである。
着いた所は古めかしい巨大なビル、”美術館”だった!
何も言わず手を引いて美術館に入る、それからの昼までの2時間は地獄の時間だった。
昼は有楽町にあったカレー、ハヤシライスの専門店(?)赤とんぼ。父との映画鑑賞の日の飯は其処以外に行った記憶がない。
そして映画の時間!ここでも落胆!
父は子供の事を考えていないのか?”終着駅” ”モンパルナスの灯” ”哀愁” ”カサブランカ”と同伴者である息子の意見はまるで無視されていた。

でも優しい、でかい、静か、此が私の父に対する思い出の言葉だ。
しかし、年に数回、作品のクランクイン前と完成祝いの時だけは父のすばらしい民謡が聴けた。