本多監督は革命的である

竹内博

 本多監督に初めて手紙を書いたのは、昭和50年、同人誌「怪獣倶楽部」別冊の「G作品絵コンテ」(『ゴジラ』S29のピクトリアル・スケッチ)を編集している時だった。
 『ゴジラ』絵コンテを復刻するにあたって、ぜひ原稿をお願いしたいと申し述べたところ、快く原稿を書いて下さった。
 それは、2枚のハガキにビッシリ書かれており、若い怪獣映画ファンの、その後の怪獣映画研究の緒(いとぐち)を開くことにもなった、好意に溢れたものだった。このハガキは、今でも大切に保存してある。
 それから数年後、朝日ソノラマの「ファンタスティック・コレクション」の一冊として、「特撮映像の巨星・ゴジラ」というムック本を編集した時にも、改めて原稿をお願いし、玉稿を得た。
 この頃は、まだ東宝・アドセンターの保管する特撮怪獣映画のスチール、スナップのネガから、自由に写真をプリント出来る時代ではなかった。
 当時、東宝撮影所にあった製作宣伝部の林さん、本間さん、池田さん、稲積さんたちは、黒澤映画と怪獣映画が好きで、これらの作品別のブック(ベタ焼き写真を貼ったスクラップ・ブック)も、完全ではないが、宣伝部の部屋に残していた。
 雑誌や本に怪獣映画のスチールを掲載する際には、これらのブックから作品ごとに写真を選び、プリントしてもらっていたものだ(ブックのない作品は当然、写真がプリント出来ない)。
 しかし、東宝にも無い、スタッフが写した写真の中に、時々良いものがある事に気付いたのは、この頃だった。
 そこで、本多監督のお手持ちの写真を拝見させてもらい、必要な写真を複写することにした。何月だったか正確な記憶はないが、中島紳介君に手伝ってもらい、ご自宅にお邪魔して複写作業を行っていると、その最中に日が暮れてしまった。ライトを持って行かなかったので、外が段々暗くなり、監督に「大丈夫かい?」と言われたことを、今でもハッキリ憶えている。
 この時、複写し損ねた写真に未練があり、後年「本多猪四郎全仕事」を編集した際、プロ・キャメラマンの中島秋則氏に依頼して全部複写し、そのネガは今でもある。

 このような協力的な姿勢は、本多監督にとっては、当たり前のことだったかも知れない。その後、東宝怪獣映画の本は各種出版されており、私もいくつか参画しているが、本多監督の大らかで、温厚な性格が、作品にも、出版物にも反映されていると思う。
 こちらは、アマチュアからプロへ移行しつつあったが、本多監督は常に私達に接する態度が変わらない、正に大人の風格があった。
 成城のお宅に伺ったことはあまりないが、私は東宝撮影所や東京現像所、イマジカ、ソニーPCL等で、ビデオ作品のお手伝いをしていたので、外ではよくお会いしていた。
 いまだに印象が強烈なのは、もう30年も前であるが、東宝撮影所にアメリカ人のファン3人を連れて行き、黒澤監督の『影武者』のスタッフ・ルームに本多監督を訪ねた時のことだ。ドアを開けると、本多監督と黒澤監督が談笑中であったが、本多監督はサッと外に出て、快く記念撮影に応じて下さった。
 また、その時「田中友幸プロデューサーに会うかい?」と気を利かせて下さり、 私も久しぶりに田中さんにお目にかかれて、嬉しかったものだ。
 本多監督は、このように優しい面もあるが、折々の節目をキチンと通す人でもある。つまり、中国で云う大人(たいじん)でもあり、大人(おとな)でもある。要するに「男」なのだ。
 こんな男の、いい作品に惚れないでは、日本男児とは云えないだろう。私は、ようやく麓にたどり着き、上を仰いでいる。所詮、私達は本多監督の手の上で踊っているに過ぎないのかも知れない。が、それはそれでいい。
 本多猪四郎と云う孤高の山を目指して、歩き続けるのは、我々に与えられた宿命なのではないだろうか。
 本多猪四郎監督は、円谷英二監督と並び、人間の運命を変える力を持った、革命的な映画監督なのである。

2009.6.20