「110年目の本多猪四郎」その2の1
中島紳介
個人的な話になりますが、小学生のころ親戚の叔父さんに連れられて地元の映画館に行き、従兄弟たちといっしょに当時封切られた新作『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』を観ました。夏休み、しかも怪獣ブームのまっただ中ということで館内は超満員。通路にも人が溢れ、子供まで立ち見の盛況です。私はその人垣の間からスクリーンを必死にのぞき込んでいましたが、冒頭の大ダコやメーサー光線の光は印象的だったものの、内容ほとんどわかりませんでした。
この作品を初めて完全な形、ノーカット・フルサイズのオリジナル・バージョンで観ることができたのは学生時代──上京して都内の名画座のオールナイト興行や特集上映に通い、映画三昧の日々を送るようになってからです。その時いちばん驚いたのは、屋上のビアガーデンで歌っていた女性歌手がガイラに襲われるシークエンス。女性歌手を食べようとして掴み上げたガイラが、点灯された照明に驚いて彼女を放り出した後の描写です【注1】。
ガイラが去ったのを見計らい、フロアにいた支配人たちが倒れている歌手に駆け寄って助け起こします。そして支配人が「担架を持って来い」と叫ぶと、心配そうに見守っていたウエイトレスの女の子たちがみんなで歌手のスカートの裾を直してやるのです【注2】。なんだ、そんなことか──と多くの人が思うでしょう。同姓を気遣う、しごく当たり前の行動じゃないか、と。いや、そんな画面の隅の方まで見ていた観客は少なかったかもしれません。それに怪獣映画が好きな子供たちにとっては、むしろどうでもいいことだったはずです。
ですが、私が大人になってからこの映画を観て何より驚いたのは、そういうふうにスルーされてしまうような些細な情景が、怪獣出現という緊急事態にあってなお、スポイルされることなくカメラに捉えられている点です。このシーンはクレーンを使って斜め俯瞰のアングルから、フィックスのカメラでワンカットの一発撮り。フロアで起きていること──客や従業員を演じるエキストラの役者さんたちの動き──を、そのまま丸ごとフィルムに収めています。それは撮影技師・小泉一キャメラマンの視点であると同時に、その構図とカメラワークと演技にOKを出した本多監督のものでもあります。もし誰かが同じような状況に遭遇した場合、おそらくするであろう行動や動作や表情をきちんと画面にする。これこそが本多監督の演出なのです【注3】。
もうひとつ例を挙げましょう。私が観るたびに感心してしまう場面が前年に公開された『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』にもあります。終戦直前、フランケンシュタインの心臓を広島の陸軍病院に届けた河井大尉(海軍の技術士官)は、戦後、秋田沖の海底油田を開発する技師として働いています。不死身の心臓と地下の巨大生物の両方を目撃したことから、主人公のボーエン博士たちに協力する役回り(いわゆる便利キャラ)ですが、その河井がある情報を持って富士山麓のホテルに博士たちを訪ねてきます。
この時、河井は部屋に入ると挨拶もそこそこにボーエン博士と川地を相手に話し始めますが、戸上季子はスッと奥へ行き、お茶を煎れて戻ってきます。しかし河井は自分の発見を伝えるのに夢中で、出されたお茶には目もくれません。観客の方も画面上に展開される俳優たちの演技、それが作りだすストーリー展開に集中しているので、お茶のことなど気にもしないでしょう。要するにこの場面では、お茶を出しても出さなくても物語に何の影響もないのです。
ではなぜ、すぐに次のカット(3人が河井の話を聞く)につながないで、わざわざ水野久美さんにシナリオに書かれていない演技をさせたのか。俳優たちのセリフや動き(それぞれがソファに座る)の間を稼いで、場面のつながりをスムーズにするための配慮など理由はいろいろと考えられます。しかし答えは簡単。それがきわめて日常的な習慣の動作だからです。
ハリウッド映画や海外のドラマを見ていると、会社の上司や家の主人が部下または来客に「一杯飲むかね?」と、真っ昼間からお酒を勧める場面がたびたび出てきます。日本ではあまり見られない光景だと思いますが、これがロス市警殺人課のコロンボ警部なら「せっかくですが仕事中なもので」と遠慮するか、あるいは「たまにはいいとしますか」とか「じゃあ、お言葉に甘えて一杯だけ」とご相伴に預かったりします。要するに自分を訪ねてきた相手に対する、それが当然のマナー、社会的エチケットというわけです。
日本映画の場合はどうかというと、例えば本多監督の日大の後輩にあたる深作欣二監督の傑作『仁義の墓場』では、自分の親分をひどい目に遭わせた疫病神のようなやくざである主人公に、極道修行中の若い子分がお茶を出すシーンが出てきます。覚醒剤で荒稼ぎをしている反社の暴力団でも上下の礼儀に厳しく、来客にはお茶を出してもてなすのです。
本多監督の作品がもつリアリティは、こうした〝当たり前の日常描写〟から生まれるものです。日本人なら誰でも、例え旅先のホテルであろうと、誰かが訪ねてくればお茶の一杯も出して迎えるでしょう(ここで「粗茶ですが」と謙遜するのも日本人の礼節です)。
話は飛びますが、前回の東京オリンピックが賑々しく開催された、その同じ年の作品『三大怪獣 地球最大の決戦』に、兄の体の上に身を乗り出してテレビのチャンネルを切り替える妹──という描写があります。同じように兄弟姉妹をもつ人なら「あるある」と頷いてしまうような、当時の平均的な家庭のひとコマです。二人はこの後、口喧嘩を始めて母親にたしなめられますが、『キングコング対ゴジラ』で恋人のビフテキの方が大きいと妹に文句を言うお兄さんも含めて、令和の現代でも同様の光景が日本のあちこちで見られるのではないでしょうか。
本多監督の映画では、そんな平凡でありふれた描写が怪獣による都市破壊や宇宙人の侵略といった異常事態(それを描く特撮シーン)とシームレスにつながり、特撮映画に不可欠な現実感・臨場感を補完しています。旅館で入浴していた白石江津子が窓から見えるモゲラに息を飲むカットや、沢村いき雄演じる農夫が上空を飛ぶSY―3号を見上げて「おらとこのタケシも月へ行ってたでな」と自慢する場面などが〝日常(本編)と非日常(特撮)が出会う瞬間〟をとらえた代表的な例です。非日常の事件の中にあっても日常感覚をおろそかにしない本多監督の演出姿勢が、半世紀を越え、あの時の未来となった現在もなお愛される東宝怪獣映画の魅力を、円谷英二の精緻な特撮と共に支えていると言っていいでしょう。
さて、そのような円谷特撮と本多演出の絶妙なコンビネーションについては、改めて次回で──。
【注1】本多監督の使用台本によると、このビアガーデンのシーンはシナリオでは「米版別撮り」となっていて、ガイラの登場も含めて具体的な内容は書かれていない。ほかにも別撮りが数か所あり、間宮博士が第三海神丸を調べるシーンは、米版(本国版)用にスチュワート博士が調査する形でも撮影されている。
【注2】おそらくリハーサルの間に本多監督の指示、助監督の指導、役者さんたちの自発的なアイデアなどで固められた動きと思われる。
【注3】監督がご存命のころ、ある報道番組で自衛隊のヘリコプター訓練の取材があった。着陸して機外に出る際、指揮官がテレビ局のクルーに向かって「まだまだ、落ち着いて」と声をかけて安全確認をする場面があったので、私が「本多監督の映画みたいですね」と伝えると「ああ、あの人たちはみんなそうですよ。それが普通です」と、訓練された人間の当然の対応だと答えてくださったのを憶えている。『モスラ』で、射殺されたネルソンの手を警官が踏みつけて拳銃を取り上げる描写についても「相手がまだ生きていたら危険ですからね。戦場では常識ですよ」とおっしゃっていた。
2021.7.7