本多猪四郎作品の〝花〟の演出

「110年目の本多猪四郎」その1

中島紳介

 

花が好きだった本多監督の作品には、印象的な小道具として花が登場するものが少なくありません。
中でも有名なのが『サンダ対ガイラ』の花束でしょう。ガイラが羽田空港に出現し、人々をパニックに陥れて再び海へ去ったあと、大混乱の名残りのようにうち捨てられている花束のショットです。遠来の客を歓迎するためのものだったのか、あるいは新婚旅行に出発する花嫁が持っていたのか。いずれにしても、ガイラを追い払った雲間からの陽光に照らされて落ちている花束は、ガイラの出現がいかに人々を恐怖させたか、そのショックの大きさを逃げ惑う人々の描写の締めくくりとして雄弁に物語っています。
しかもその花束は、直前のシーンでガイラに食べられてしまった航空会社の女性事務員の死をも同時に表現しています。ガイラがもぐもぐと口を動かし、衣服だけを吐き出す描写では直接的に見せなかった血しぶきを、この花束の赤い花と赤いリボンに投影しているわけです。【註1】

本多監督はインタビューに応えて「今だったら、食べられた人間の骨まで出しても平気な時代だと思うけど。あれはその時代の描写だと考えてもらっていいと思いますね。映画というものが持っている、その時その時の社会情勢、大衆の気持ちの描写がそこに出ているし、多分そうでなかったら、あの当時のこのシーンは逆にお客さんの方が承知しないと思うんですよ」と語り、怪獣同士のバトルにも流血描写が氾濫するようになる70年代の感覚とは違うと証言しています。
そして〝映像に時代が刻印され、観客である大衆の意識が記録される〟ことが映画のもつ重要な文化的側面であるとして「ガイラが食べたあとで花束くらいないと、とてもじゃないけど、その当時の民衆は承知しなかったという一つの証拠になると思うんですね」と振り返っています。【註2】
こうしたリアル志向で東宝怪獣映画の原点回帰を図った作品と、逆に怪獣の生態描写など荒唐無稽さを武器にして独自のカラーを打ち出した大映ガメラシリーズの比較も面白いのですが、それはまた機会を改めることとして、とにかく注目は花です。

『サンダ対ガイラ』では他にもラスト近く、ヒロインの戸川アケミが怪我をして収容された病院の場面で、スチュワート博士がベッドの脇に置かれた花瓶に(どこで手に入れたか定かではありませんが)鮮やかなオレンジピンクの花をすっと差し入れる、さすがハリウッド俳優らしいラス・タンブリンのスマートな演技が見られます。
空港の花束の残酷な死のイメージに対して、こちらは〝僕の大事な女性(ひと)〟というアケミへの愛情表現です。姉妹編である前作『フランケンシュタイン対地底怪獣』では、戸上季子のアパートに招かれたボーエン博士が誕生日のお祝いの花束を不器用に差し出す場面がありますが、本多監督の特撮怪獣映画がもつリアリティは、このような花の使い方にも表れていると言えるでしょう。

それは次の作品『キングコングの逆襲』も同様です。北極にあるドクター・フーの秘密研究所は、万年雪に閉ざされた機能一点張りの工場施設です。しかも悪人ばかりが集まった男所帯。そこにスポンサーの東南アジア某国から美貌の女工作員、文字通り紅一点のマダム・ピラニアが派遣されてくる。ドクター・フーは彼女のご機嫌を損ねないように、派手なフラワーアートが飾られた豪華ホテルのスイートのようなプライベート・ルームを用意して歓迎します。
これはフーの立場からの妄想で、逆にマダム・ピラニアが自らこうした部屋をオーダーしたと考えた場合、彼女にとってはこの部屋だけが自分と祖国、あるいは自分が憧れている(核兵器を手に入れて作ろうとしている)理想の世界とつながる回路なのでしょう。無味乾燥な鋼鉄色の研究所の中で、彼女の部屋だけが華やかな色彩にあふれています。ニューヨークやパリの一流店から最新モードの服と観葉植物を取り寄せているのかと想像すると、後半でフーと対立する彼女の本質的な人間らしさ──その孤独と悲哀が見えてきて、いじらしくさえ感じられます。
もっとも、コンクリートと鉄格子で囲まれた監禁室のデスクにも花器が置かれているので、見るたびにツッコミを入れたくなるのですが……。あるいは、基地の男たちにせめてもの潤いを与えようというマダム・ピラニアの思いやりだったのでしょうか。

ところで、そうした日常描写の一環とは異なる花の演出が『ガス人間第1号』にあります。言うまでもなくラストシーンで、焼け焦げた藤千代の衣装を掴んだまま絶命するガス人間・水野の上に倒れ落ちる花輪です。誰が見てもこれは、滅んでいった科学の犠牲者を悼む、本多監督の鎮魂の思いがこめられた演出であることがわかります。
そのことについて本多監督に質問する機会がありましたが、答えは「いや、映画はやっぱりきれいに終わった方がいいからね」と、過剰に思い入れたこちらの深読みをかわすかのようにあっさりとしたものでした。〝映画は観客のもの、解釈は自由〟と考えていた本多監督らしい、いわば謙遜の言葉と当時は受け止めたものでしたが、よく考えてみれば、もっと別の──映画作りの極意を示すような意味合いも込められていたのだと思います。

実は『ガス人間第1号』にはもう一つ、注目すべき花の演出があります。家宅捜索で銀行から強奪された紙幣が見つかり、藤千代が事情聴取を受ける取調室のシーンです。先に逮捕された模倣犯の西山は刑事たちに容赦なく締め上げられていましたが、藤千代はまだ任意出頭の段階なのでお茶の用意がしてあり、さらに殺風景な取調室には不似合いな花瓶まで置かれていますす。
この映画のヒロイン、日本舞踊の家元・春日藤千代はその名前が示すとおり、藤の花がトレードマークで、当然ながらイメージカラーは藤色、すなわち薄紫です。この場面の花瓶にも、種類は判然としませんが数輪の紫色の花が生けられています。登場人物の服装でも判るように、物語の季節は夏。夏に咲く紫色の花といえば紫陽花、朝顔、桔梗などが思い浮かびますが、形から見て恐らく薊ではないかと思われます。なぜアザミなのかといえば、花言葉を調べれば一目瞭然。厳格、高貴、気品──まさしく藤千代その人ではありませんか。
これは紫のアザミの場合で、白いアザミの花言葉は自立心、赤いアザミは報復、復讐となります。藤千代がたった独りの発表会を強行した理由として、自分の芸を世の中に認めさせたいという芸能者の業だけでなく、春日流を見捨てた師匠連や弟子たち、さらに伝統に縛られた日本舞踊の世界そのものに対する復讐の意図があったことは明らかです。アザミには他にも独立、触れないで、人間嫌い等の意味があり、おまけに葉にはトゲまで付いています。孤高のヒロイン・藤千代にこれ以上ふさわしい花はないのです。

なお、今回取り上げたような演出やディテール描写は、いちいちシナリオに書かれているわけではありません。すべての映画がそうであるように、監督をはじめ各パートのスタッフが綿密な打ち合わせによって取捨選択し、完成作品に向けて組み立てていったものです。
たとえば『ガス人間第1号』の本編美術監督である清水喜代志は『続思春期』『大怪獣バラン』『真紅の男』といった本多作品のほか、『太平洋の嵐』『潜水艦イー57降伏せず』のような戦記特撮からサザエさん、クレージー喜劇、恋愛ものまで幅広く手がけています。そうした小道具の配置は、わざわざ監督が指示するまでもなかったのかもしれません。
しかし、だとすればなおのこと。取調室にあってもなくても物語の進行には全く影響しない花瓶とこの花を、美術部か小道具係か、あるいは助監督か、とにかくスタッフの誰かが思いついて用意し、本多監督がそれを良しとして撮影したのかと考えると、当時の東宝──のみならず、黄金期の日本映画を支えた職人技術者たちのセンスや力量、映画を作るプロフェッショナルの意識の高さといったものに、今さらながら感銘を受けずにはいられません。
本多作品を見る楽しみは、そうした映画美術や撮影技術の粋を味わうことにもあるのです。

【註1】本作の海外版『THE WAR OF THE GARGANTUAS』では、吐き出されたボロボロの服(の残骸)も映し出される。また後半では、ボート遊びのカップルの女性が着ていた赤いワンピースが、特撮シーンで血のイメージに使われている
【註2】竹内博・著、ワイズ出版「特撮をめぐる人々 日本映画 昭和の時代」所収〝ゴジラの父 本多猪四郎〟より