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本多猪四郎監督ホームページ作成の昔話(その2)
【各ページ背景へのちょっとしたこだわり】 安田たくじ トップページ 映画関係のホームページとして開設し、世界に知られる本多監督のページという事からトップページのデザインはかなり日本的な発想かも知れませんが「銀幕」に拘る事にし、灰色のグラデー... -
本多猪四郎監督ホームページ作成の昔話
安田たくじ 本多監督のホームページを作る事になった切っ掛けは、写真データを沢山遅れなかったからでした。隆司さんがニューヨーク在住の時、私から昔の写真数枚をメールで送ろうとしたのですが、当時はメールで送れる容量に制限が有り、また転送サービス... -
本多監督の演出のここがスゴイPart2
「110年目の本多猪四郎」その2の2 中島紳介 本多監督が演出した本編シーンと円谷英二特技監督による特撮シーンの相性の良さはつとに指摘されるところで、例えば『地球防衛軍』の火炎放射器で攻撃する自衛隊員と火炎を浴びるモゲラのシネスコ画面を生かし... -
本多監督の演出のここがスゴイPart1
「110年目の本多猪四郎」その2の1 中島紳介 個人的な話になりますが、小学生のころ親戚の叔父さんに連れられて地元の映画館に行き、従兄弟たちといっしょに当時封切られた新作『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』を観ました。夏休み、しかも... -
本多猪四郎作品の”花”の演出
「110年目の本多猪四郎」その1 中島紳介 花が好きだった本多監督の作品には、印象的な小道具として花が登場するものが少なくありません。 中でも有名なのが『サンダ対ガイラ』の花束でしょう。ガイラが羽田空港に出現し、人々をパニックに陥れて再び海... -
本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆 「101年目の本多猪四郎」特別編(下)
「101年目の本多猪四郎」特別編(下) 中島紳介 そうした葛藤の中で生み出された本多のSF・怪獣映画はリアルだ、とよく言われる。特に怪獣を迎え撃つ防衛隊や避難する群衆の描写には、軍隊や戦場での厳しい日常も「映画を撮るときに無駄にならないし、無... -
本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆 「101年目の本多猪四郎」特別編(上)
「101年目の本多猪四郎」特別編(上) 中島紳介 映画監督・本多猪四郎の代表作である『ゴジラ』(1954年11月公開)が、同じ年の3月に起きた第五福竜丸の受難にヒントを得て製作されたことはよく知られている。静岡県焼津港のマグロ漁船・第五福竜丸が赤... -
イシロウ、それともイノシロウ?
「101年目の本多猪四郎」その2 中島紳介 本多監督の名前「猪四郎」は「いしろう」と読みます。亥年(いどし)、つまり「いのしし年」生まれの四男ということで名付けられたそうで、一時期は「いのしろう」と呼ばれ、本や雑誌でもそう書かれていました(... -
改訂作業
「101年目の本多猪四郎」その1 中島紳介 当サイトのBIOGRAPHY(略年譜)は本多監督の没後、ムック「東宝SF特撮映画シリーズvol.8 ゴジラvsメカゴジラ」(93年)の追悼小特集のために作成した作品リストをもとに、同シリーズに分載されたロング・インタ... -
思いがけない出会い
エド・ゴジシャスキ このウェブサイトにある竹内博さんのメッセージを読ませていただき、私の初来日のエピソードが書かれていることを見てびっくりしました。この日は私にとって、人生でもっとも思い出深い日の一つでもあります。 かれこれ30年も昔の... -
本多監督は革命的である
竹内博 本多監督に初めて手紙を書いたのは、昭和50年、同人誌「怪獣倶楽部」別冊の「G作品絵コンテ」(『ゴジラ』S29のピクトリアル・スケッチ)を編集している時だった。 『ゴジラ』絵コンテを復刻するにあたって、ぜひ原稿をお願いしたいと申し述べた... -
2009年本多宣言
竹内博 昭和29年(1954)の第一作目の『ゴジラ』は、ゴジラ誕生20年として、昭和49年の11月、「SF映画ともの会」に依って、世田谷砧区民会館の「第2回SFショー」で上映されている。 その時に、『ゴジラ』の35m/m、全10巻のフィルムを、東宝撮影所から借... -
2009年がスタートした
本多隆司 後二年で父の生誕百年が来る。本多猪四郎監督のファンの皆様、そして私自身の為にも“父”としての“監督”の思い出を作りたい、と願っています。 頭の中には色々なイベントが生まれ、駆け回り始めています。 本多猪四郎監督の人柄、考え方、愛される... -
本多監督の思い出・その2
小林晋一郎 本多監督にお目にかかるたび、いつも新鮮な驚きと発見がありました。そのひとつは、「抜群の記憶力」です。 監督宅にお邪魔させていただく時、いつもご一緒していただいた開田裕治氏や鳴海丈氏、中島紳介氏らは、いずれ劣らぬ博覧強記で、膨... -
「お台場映画王」ゴジラ復活祭
開田 裕治 先日、お台場のフジテレビのイベント、「お台場映画王」でHDリマスター版の『ゴジラ』(54年)と『三大怪獣地球最大の決戦』の上映を観てきましたが、『ゴジラ』(54年)は今まで暗部に潰れていた中間調が見事に蘇り、芹沢博士の顔の火傷メイクなど... -
2011年 父の生誕百年です。
本多 隆司 父が逝ってから15年の月日が流れました。23年間で46本の劇場映画を作り続けた父でした。 今になって振り返ってみると"怪獣映画の監督""SF監督"等と言う代名詞が父の人生での哲学みたいな物をわかりやすく形作った、作れたのではないか?とも感... -
本多監督の思い出
小林晋一郎 目の前に一枚の色紙があります。 『黙々与天語 黙々与天行 映画監督 本多猪四郎』 正真正銘、あの本多監督から直々に頂戴したお言葉です。 帰天される数年前から、幸運にもご自宅に伺い、何度かお話をさせていただく機会がありま... -
実行委員になって
佐原健二 私と本多監督との関係は皆さんもう既にご存知の事と思いますのでここで特に触れる事はしませんが、「ゴジラシリーズ」、「ウルトラシリーズ」といえば「佐原健二」と現在でも皆さんに名前をあげて頂けると言うのは、他の俳優とは明らかに一線を画... -
父が映画制作に思う気持ちは何だったんだろうか? No.2
本多 隆司 父の作品には多くの物神秘的で、奥深い表現があるのでは? 監督の描きたかった裏には何かがある、こんな事を思っていたのではないか? SFで有るが故に神秘な世界が潜んでいる事は確かだと思う、しかし、こんな事を言うと父のファンの方に叱られ... -
父が映画制作に思う気持ちは何だったんだろうか?
本多 隆司 こんな事を時々考えてしまう。 合同芸術、この事を一番大切にしていた事は確かだ。監督として作品を引っ張って行き、自分の作品として世に出した事も事実だ。 しかし、絵柄を見て“これは本多監督が描いた!”と解る特別な技法を使った事があ... -
私と東宝撮影所 NO.2
本多 隆司 表門から入る時は何故か背筋がピンと成る気がした。 入って直ぐ左側に各作品のスタッフルームがずらりと並んでいた。その一つに本多組と書かれた(小学校の一年B組の様な)表示板があり、 ポスター、が貼られていた。部屋は板張りの木造で、... -
私と東宝撮影所
本多 隆司 大プール。私の遊び場の一つが東宝撮影所だった。成城近辺をご存じの方なら憶えていらっしゃると思うが、東宝には表門と裏門が有った。当時、世田谷通りは今の様な広い直線道路では無く、蛇が通った後の様に曲がりくねっていた。いまも表門は同... -
本多監督の思い出
中島 紳介 本多監督に初めてお会いしたのは、1981年の夏に開催された「第1回アマチュア連合特撮大会」の会場だった。スタッフの末席にいた私は、トークショー出演のために来場された監督を控え室でお迎えし、パンフレットに同じくゲストの平田昭彦氏と... -
隆司の上海便り vol.1
本多 隆司 今、私は上海で中国国産初の特撮物の制作に従事しております。 山も丘もない、だだっ広い上海。揚子江から流れ出る大蛇の様な曲がりくねった、茶色い河が流れる街、上海。膨大な数のビル群、日本のバブル時期をも彷彿とさせる景気。 あまりの変... -
父 本多猪四郎の思い出
本多 隆司 私の中に二人の本多猪四郎が居る。父としての本多猪四郎、そして映画監督としての本多猪四郎だ。 正直、父としての猪四郎の記憶は少ないと思う。 幼児期の思い出 七伍三のお祝いに明治神宮へ父と二人で行った。これ自体が既に問題であったはず... -
父の14年目の命日が過ぎました。
本多 隆司 早い物ですね、思い起こせば起こすほど、思い切りの良い旅立ちでした。あれは黒沢作品の“まあだだよ”がクランクアップした時でした。 私はまだNYで生活をしておりましたが、その日の朝、(日本では深夜です)突然、家の電話が鳴り、電話の向... -
本多猪四郎の思い出
本多 きみ 私は”ご苦労様でした”の一言です。 本多猪四郎の作品を選ぶとするならば一番は第一回作品の”青い真珠”でしょう。大事な大事な青春時代を八年間も戦争に取られ、そのブランクはすごく長く、帰国して、東宝からも本社の方に来ないか?と言われた... -
本多きみ(妻) ごあいさつ 2006年11月
本多 きみ(妻) 2006.11 主人が逝ってもう十四年が過ぎました。五十四年間一緒に暮らした日々を思い出してみました。いつもいつも穏やかな人でした。 私も子供達も大きな声を出して叱られた事は有りません。たまたま家にいる時はほとんど自分の部屋で...
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