BIOGRAPHY

本多猪四郎(ほんだ いしろう) Ishiro Honda
1911.5.7(明治44)~1993.2.28(平成5)

山形県出身。1934(S9)日大芸術学部卒。その前年の’33、P.C.L.(のち東宝)に助監督として入社。戦時中は軍隊生活。復員して、’51「青い真珠」で劇映画初監督。
特殊撮影に関心をもち、特技監督円谷英二と組んで’54「ゴジラ」、’57「地球防衛軍」、’61「モスラ」、’65「怪獣大戦争」などを監督して怪獣映画ブームの立役者となり、海外でも知られた。
黒澤明監督とは助監督時代からの親友で、「野良犬」で監督助手を務め、「影武者」では監督部チーフ、「乱」「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」では演出補佐の肩書きで黒澤監督を助けた。
享年81。

本多猪四郎監督

~20代(~1930年代)   30代(1940年代)  40代(1950年代)  50代(1960年代)
60代(1970年代)     70代(1980年代)  80代(1990年代) 

2000年代  2010年代

~20代(~1930年代)  
30代(1940年代) 
40代(1950年代) 
50代(1960年代)
60代(1970年代)    

70代(1980年代) 
80代(1990年代) 
2000年代 
2010年代

~20代(~1930年代)

1911年(明治44年)

5月7日、山形県東田川郡朝日村大綱(七五三掛=しめかけ地区)、現在の鶴岡市大網にて、湯殿山注連寺山内にあった宿坊のひとつ、龍傳院の僧侶を務める父・芳寛、母・みよの間に末っ子として誕生。
三人の兄と姉一人がおり、亥生まれの四男ということから猪四郎と名づけられる。生家は代々僧職の家柄で、半農半業を営んでいた。

1921年 (大正10年)10歳

小学三年生のとき、父が東京・高井戸にある医王寺の住職となり、一家揃って上京。高井戸小学校に転入する。その後(六年生の頃)一家は神奈川県の川崎に引っ越し、橘小学校を経て攻玉社中学(旧制、現在の攻玉社学園)に進学。
のちに陸軍軍医となった長兄・隆元らの影響もあり、小学・中学時代は「少年倶楽部」「日本少年」「子供の科学」「科学画報」などの雑誌を通じて科学や文学に親しむ一方、小学校の巡回上映会で初めて映画と出会い衝撃を受ける。
以後は兄(三男・隆三)に連れられ、または学校に隠れて劇場に通い、当時流行の連続活劇を中心に松之助映画やチャップリンの喜劇、「メトロポリス」など内外の様々な映画を鑑賞。特に徳川夢声が弁士を務めたエミール・ヤニングス主演、F.W.ムルナウ監督の「最後の人」(1926)には強い感銘を受けた。

1931年(昭和6年)20歳

攻玉社中学を卒業後、”第八芸術”と呼ばれた映画の可能性に憧れ、創設間もない日本大学芸術科映画科(のち芸術学部映画学科)に入学。

1932年 (昭和7年)21歳

東宝の前身となるP.C.L(写真化学研究所)が発足。映画製作を開始する。

1933年(昭和8年)22歳

日大映画科の講師でもあったP.C.L.支配人・森岩雄に招かれ、人材育成を目的とした映画青年の集まり〝金曜会〟に参加。早大生だった谷口千吉、ソ連に映画留学した亀井文夫らと共に森の薫陶を受ける。
3月発行の攻玉社中学校友会の文芸誌「攻玉」に、本多猪之助(日大芸術科)の筆名で『映画の鑑賞について』を寄稿。
8月、森支配人に誘われる形で会のメンバーと共に日大卒業前にP.C.L.映画製作所に採用され、製作部演出課に所属。編集の見習いをしつつ、最初にスクリプターとして木村荘十二監督「只野凡児人生勉強」につく。

1934年(昭和9年)23歳

日大卒業と共にP.C.L.に正式入社。
「エノケンの青春酔虎伝」で以後師事することになる山本嘉次郎監督と出会い(助監督兼スクリプター)、そのほかにサード、セカンド助監督として矢倉茂雄監督「絹の泥靴」、成瀬巳喜男監督「乙女ごころ三人姉妹」につく。
徴兵検査で甲種合格。

1935年(昭和10年)24歳

1月、陸軍第一師団歩兵第一連隊第五中隊に入隊。

1936年 (昭和11年)25歳

2月、陸軍の青年将校らが決起したクーデター未遂事件、いわゆる2.26事件に遭遇。
5月、満州に派遣される。 当初は朝鮮半島に接する鴨緑江の近辺に駐屯していた。

1937年(昭和12年)26歳

3月、現役除隊。P.C.Lの撮影所に復帰し、山本嘉次郎監督「良人の貞操」に参加。同作の助監督仲間で、終生の友となる黒澤明と出会う。チーフ助監督(クレジットは現場主任)は谷口千吉が務めていた。
引き続き同監督「エノケンのちゃっきり金太(前・後篇)」にセカンド、山中貞雄監督「人情紙風船」に応援として参加。ほかに山本嘉次郎監督「美しき鷹」、成瀬巳喜男監督「雪崩」、伏水修監督「たそがれの湖」につく。
8月、P.C.L.を母体に東宝映画株式会社が発足。

1938年(昭和13年)27歳

滝沢英輔監督「地熱」(チーフ=黒澤、セカンド=本多)、伊丹万作監督「巨人伝」、山本嘉次郎監督「藤十郎の恋」、成瀬巳喜男監督「鶴八鶴次郎」を経て、佐藤武監督「チョコレートと兵隊」でチーフ助監督に昇進。

1939年(昭和14年)28歳

3月、スクリプターをしていた山崎きみと結婚。
佐藤武監督「沙羅乙女(前・後篇)」、小国英雄監督「ロッパ歌の都へ行く」、山本嘉次郎監督「エノケンのざんぎり金太」につき、同じく山本監督「馬」を撮影中の12月、第1回応召。

30代(1940年代)

1940年(昭和15年)29歳

1月、長女・孝子誕生。
4月、再び中国大陸に出征。完成した「馬」を戦地で観ることとなった。

1942年(昭和17年)31歳

東宝映画産報会報第5号(7月)、第8号(10月)に「戦地だより」を寄せる。
12月、除隊。

1943年(昭和18年)32歳

東宝撮影所に復帰。山本嘉次郎監督「加藤隼戦闘隊」の助監督を小田基義(チーフ)、古澤憲吾らと共に務める。撮影は翌年3月まで続いた。
この年、映画製作・配給から演劇興行まで一貫経営する東宝株式会社が発足。

1944年(昭和19年)33歳

1月、長男・隆司誕生。
3月、「加藤隼戦闘隊」の完成と同時に2回目の応召。

1945年(昭和20年)34歳

8月、中国の揚子江岸、江蔭で終戦を迎える。

1946年(昭和21年)35歳

3月、約半年間の捕虜生活を終えて復員。
第一次労働争議の最中だった東宝撮影所・助監督部に復帰する。
小田基義監督「十一人の女学生」(一部)、渡辺邦男監督「愛の宣言」につく。

1947年(昭和22年)36歳

今井正・楠田清・関川秀雄共同監督による「地下街24時間」(演出補佐)、山本嘉次郎監督「エノケン・ロッパの新馬鹿時代(前・後篇)」、同「春の饗宴」(演出補佐)につく。

1948年(昭和23年)37歳

映画芸術協会第一回作品である山本嘉次郎監督「風の子」(太泉スタヂオ提携、翌年公開)に演出補佐として参加。

1949年(昭和24年)38歳

山本嘉次郎監督「春の戯れ」(新東宝、映画芸術協会)につく。
文化映画『国立公園 伊勢志摩』を演出。
黒澤明監督「野良犬」(新東宝、映画芸術協会)の監督助手を務める。同作ではB班としてロケ撮影も担当し、闇市を歩く三船敏郎の吹替を演じた。
小田基義監督「歌うまぼろし御殿」(太泉映画、東映配給)の演出補佐を担当。

40代(1950年代)

1950年(昭和25年)39歳

山本嘉次郎監督「脱獄」(太泉映画、映画芸術協会)の演出補佐を務める。
生活協同組合を題材にした文化映画『砂に咲く花』を演出。
「映画評論」6月号に演出・本多猪四郎として、井手俊郎による「新聞小僧」のシナリオ(原作=阿部知二、未製作)が掲載される。

1951年(昭和26年)40歳

山本嘉次郎監督「悲歌(エレジー)」(東宝、映画芸術協会)についた後、8月、念願の企画『青い真珠』で監督デビューを果たす。
「キネマ旬報」6月下旬号に「青い真珠」のシナリオが掲載される。
同7月特別号および「新映画」9月号、「近代映画」9月号等のグラフページで「青い真珠」の撮影風景が紹介される。
南日本新聞に随想『俎上の鯉』を発表。
8月7日付け「名古屋タイムス」の”あの声・この顔”欄に取材記事「実践肌の感激居士 わが道を往く本多監督」が掲載される。
「丸」9月号の座談会「映画の名人藝」に吉村公三郎、黒澤明、南部圭之助、森岩雄と共に出席。
「キネマ旬報」9月上旬号”撮影所通信”に「青い真珠」に関する取材記事「”もう一度海にぶつかりたい”本多監督が語る」掲載。

1952年(昭和27年)41歳

第2作『南国の肌』続いて田中友幸プロデュースによる第3作『港へ来た男』を監督。
「キネマ旬報」3月上旬号のグラフページで「南国の肌」の鹿児島ロケの様子が紹介される。
「特信文化」に随筆『海の映画』を発表。

1953年(昭和28年)42歳

第4作『続思春期』を監督。
「新映画」8月号に「続思春期」のシナリオと共に甲府ロケの記事が掲載される。
「キネマ旬報」秋の特別号「アンケート形式による新人監督会議」に回答を寄せる。
「映画ファン」12月号に「太平洋の鷲」の抱負として『勝算なき戦い』を発表。

1954年(昭和29年)43歳

第6作『さらばラバウル』
第7作『ゴジラ』
第8作『恋化粧』(公開は翌年)を監督。

1955年(昭和30年)44歳

第9作『おえんさん』
第10作『獣人雪男』
第11作『若い樹』(公開は翌年)を監督。
「キネマ旬報」5月下旬号で「おえんさん」の撮影風景が紹介される。
11月、日本映画監督協会に入会。

1956年(昭和31年)45歳

第12作『夜間中学』(大映)
第13作『東京の人さようなら』
第14作『空の大怪獣ラドン』(初のカラー作品)を監督。
4月、テリー・モース監督によって追加撮影、再編集された『ゴジラ』の海外版「GODZILLA,KING OF THE MONSTERS(怪獣王ゴジラ)」がアメリカでロードショー公開される。

1957年(昭和32年)46歳

第15作『この二人に幸あれ』
第16作『別れの茶摘歌』
第17、18作『わが胸に虹は消えず』(二部作)
第19作『別れの茶摘歌 お姉さんと呼んだ人』
第20作『地球防衛軍』(初のワイドスクリーン)を監督。
「週刊新潮」2月18日号”主役の表情・白川由美(この二人に幸あれ)”に『監督の言葉』を寄せる。
同6月24日号”主役の表情・河内桃子(わが胸に虹は消えず)”に『監督の言葉』を寄せる。
5月、シネスコサイズにトリミングされた「怪獣王ゴジラ」が凱旋興業と銘打って公開される。

1958年(昭和33年)47歳

第21作『花嫁三重奏』
第22作『美女と液体人間』
第23作『大怪獣バラン』
第24作『こだまは呼んでいる』(公開は翌年)を監督。
「キネマ旬報」6月下旬号の巻頭グラフページに”怪奇活劇「美女と透明人間」の本多組”と題してスタッフ写真が掲載される(目次は”「美女と液体人間」の本田組”)。
10月「特集 丸・第九集 日本陸海軍戦史」(潮書房)の「アンケート わが軍隊生活の思い出」に回答を寄せる。

1959年(昭和34年)48歳

第25作『鉄腕投手 稲尾物語』
第26作『上役・下役・ご同役』
第27作『宇宙大戦争』を監督。
「週刊実話特報」9月18日号のグラフページ〝撮影はすすむ〟で「上役・下役・ご同役」の撮影風景が紹介される。
「若人」昭和35年1月号のグラフページで〝スタジオも宇宙ブーム〟と題して「宇宙大戦争」の撮影風景が紹介される。

50代(1960年代)

1960年(昭和35年)49歳

第28作『ガス人間第一号』を監督。
ソ連・フィンランド合作映画「魔法の水車 サンポ」の日本語版監修を務める(62年公開)。
6月8日付「東京新聞」夕刊に「サンポ」と次回作に予定されていた「今日もわれ大空にあり」(古澤憲吾監督の同名作品とは異なる)に関する取材記事掲載。
11月8日放送「みんなの職業~映像の魔術師 特技監督」(NHK総合)に円谷英二と共に出演。

1961年(昭和36年)50歳

第29作『モスラ』
第30作『真紅の男』を監督。
「週刊大衆」9月11日号のグラフページ”ただいま撮影中”で「真紅の男」の撮影風景が紹介される。
「SFマガジン」12月号(早川書房)の座談会「映画/SFはSF/映画に何を期待できるか」に円谷英二、安部公房、佐野洋らと共に出席。

1962年(昭和37年)51歳

第31作『妖星ゴラス』
第32作『キングコング対ゴジラ』(東宝創立30周年記念映画)を監督。
日本語版監修を務めた「魔法の水車 サンポ」公開。同作のパンフレットに『「サンポ」その特殊撮影』を執筆。

1963年(昭和38年)52歳

第33作『マタンゴ』
第34作『海底軍艦』を監督。

1964年(昭和39年)53歳

第35作『モスラ対ゴジラ』
第36作『宇宙大怪獣ドゴラ』
第37作『三大怪獣 地球最大の決戦』を監督。

1965年(昭和40年)54歳

第38作『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(初の日米合作怪獣映画)
第39作『怪獣大戦争』を監督。
東宝ともの会(ファンクラブ)の機関誌「東宝映画」2月号に『空想映画の楽しさ』を執筆。
「キネマ旬報」6月上旬号のアンケート「新人監督はいまこう考える 近況報告特集」に回答を寄せる。

1966年(昭和41年)55歳

第40作『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』
第41作『お嫁においで』を監督。
「映画芸術」4月号にエッセイ『慰安婦係軍曹の回想』を発表。
「東宝映画」6月号「映画の面白さは特撮もので!」にて水野久美と対談。
TVドラマ「新婚さん」第10話(女はそのとき)、14話(許してね、お母さん)を監督(放送は翌年)。

1967年(昭和42年)56歳

第42作『キングコングの逆襲』(東宝創立35周年記念映画)を監督。
2月26日、NHK総合テレビで『ゴジラ』が初放映される。
2月28日、日本テレビの番組「すてきな夫婦 山本嘉次郎・山本千枝子」に谷口千吉とともにゲスト出演。

1968年(昭和43年)57歳

第43作『怪獣総進撃』
第44作『緯度0大作戦』(日米合作、完成・公開は翌年)を監督。
「東宝映画」7月号に随筆『未来人間をつくる』を発表。
8月、『怪獣総進撃』の併映として『海底軍艦』が短縮版でリバイバル上映される。

1969年(昭和44年)58歳

第45作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を監督。
TVドラマ「夫よ男よ強くなれ」第5話(南南西に行くのよ!)、12話(あなた、社長命令よ!)を監督。

60代(1970年代)

1970年(昭和45年)59歳

第46作『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』を監督。
1月25日、円谷英二死去(享年69)。2月2日、東宝撮影所で行われた友人葬で田中友幸、金城哲夫らと共に弔辞を読んだ。
東宝の社内報「宝苑」3月号に『故・円谷監督を悼む』、「文藝春秋」4月号に『特撮の魔術師・円谷おやじ』を発表。
3月、東宝チャンピオンまつりにて『キングコング対ゴジラ』、同じく12月『モスラ対ゴジラ』がどちらも短縮版でリバイバル上映される。

1971年(昭和46年)60歳

TVシリーズ「帰ってきたウルトラマン」第1話(怪獣総進撃)、2話(タッコング大逆襲)、7話(怪獣レインボー作戦)、9話(怪獣島SOS)、同「ミラーマン」第1話(ミラーマン誕生)、2話(侵略者は隣りにいる)を監督。
3月、東宝チャンピオンまつりにて『怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ』(改題・再編集・短縮版)、同じく12月、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 地球最大の決戦』(改題・短縮版)が上映される。

1972年(昭和47年)61歳

TVシリーズ「帰ってきたウルトラマン」第51話=最終回(ウルトラ5つの誓い)、同「緊急指令10-4・10-10」第5話(カブト虫殺人事件)、6話(アマゾンの吸血鬼)、20話(怪鳥ラゴンの襲撃)、21話(宇宙から来た暗殺者)、同「サンダーマスク」第1話(見よ!暁の二段変身)、2話(魔獣をあやつる少年)、4話(魔王冷凍作戦)、5話(吸血半魚人の復讐)、14話(魔獣を呼ぶけむり)、15話(死の汽笛だ デーゴンH)を監督。
3月、「ミラーマン」第1話が東宝チャンピオンまつりの1本として劇場公開される。

1973年(昭和48年)62歳

TVシリーズ「流星人間ゾーン」第3話(たたけ!ガロガの地底基地)、4話(来襲!ガロガ大軍団─ゴジラ登場─)、12話(恐獣基地 地球へ侵入!)、13話(戦慄!誕生日の恐怖)、18話(指令「日本列島爆破せよ」)、19話(命令「K彗星で地球をこわせ」)、23話(大恐獣バクゴンの秘密)、24話(針吹き恐獣ニードラーを倒せ)を監督。
円谷一編・著「円谷英二 日本映画界に残した遺産」(小学館)に『ゴジラの想い出』を寄稿。
3月、東宝チャンピオンまつりにて『怪獣総進撃』が『ゴジラ電撃大作戦』と改題され、短縮版でリバイバル上映。
12月、東宝チャンピオンまつりにて『キングコングの逆襲』が短縮版でリバイバル上映される。

1974年(昭和49年)63歳

キネマ旬報増刊「黒澤明ドキュメント」に「技術スタッフと助監督(当時)の証言」としてインタビューが収録される。
9月21日、山本嘉次郎死去(享年72)。
11月3日、世田谷区立砧区民会館で開かれた「第2回日本SFショー」の座談会「ゴジラの頃-日本特撮怪獣映画の系譜」に小松左京、田中友幸、円谷皐、岸田九一郎、福田純、石上三登志らと共に出席。
12月、引退記念映画「燃える男長嶋茂雄 栄光の背番号3」と併映で『モスラ』『海底大戦争 緯度0大作戦(改題)』がいずれも短縮版でリバイバル上映される。

1975年( 昭和50年)64歳

第47作『メカゴジラの逆襲』を監督し、同作のパンフレットに『特撮映画のたのしさ』を執筆。
これが最後の監督作となった。
10月発行の同人誌「衝撃波Q」第4号に『伊福部昭と怪獣映画』を寄稿。

1976年( 昭和51年)65歳

この時期(77年頃まで)「劇団いろは」で演技の講師を務める。
1月発行の同人誌「衝撃波Q」第5号にインタビュー「本多猪四郎『ゴジラ』を語る」が掲載される。
12月、日劇・東宝映画傑作選にて”円谷英二 夢の世界”と題して『ゴジラ』『モスラ』『空の大怪獣ラドン』の3本がノーカット・ニュープリント版で上映される。

1977年( 昭和52年)66歳

3月、東宝チャンピオンまつりにて『キングコング対ゴジラ』が短縮版でリバイバル上映される。
「OUT」9月号のSF映画特集に「海底軍艦」「地球防衛軍」に関するインタビューが掲載される(インタビュアー=聖咲奇)。
10月発行の同人誌「モンスタージン」2号に石田一によるインタビュー掲載。

1978年( 昭和53年)67歳

ムック「特撮映像の巨星 ゴジラ」(朝日ソノラマ・ファンタスティックコレクション)に『ゴジラの周辺』を寄稿。
3月、東宝チャンピオンまつりにて『地球防衛軍』が短縮版でリバイバル上映される。

1979年(昭和54年)68歳

黒澤明監督「影武者」に監督部チーフとして参加する(80年公開)。
監修を務めた研究書「大特撮」(コロッサス編、有文社)刊行。同書に序文を寄せる。
「STARBOY エクストラNo.1」(笠倉出版社・ウィンクル6月増刊)の特集「日本SF映画大集合」にインタビュー「本多猪四郎監督 我が作品を語る。」掲載。
6月発行の同人誌「MONSTERS」19号にエッセイ『東宝怪獣と私』を寄稿。
7月発行の同人誌「フェラス FERAS」創刊号にインタビュー掲載。
8月、全国6カ所の東宝系劇場で”ゴジラ誕生25周年/ゴジラ映画大全集”が開催され、福田純監督「ゴジラ対メカゴジラ」と共に『キングコング対ゴジラ』『怪獣大戦争』を上映。日劇では日替わりで他の東宝特撮映画も上映された。
月刊マンガ少年別冊「すばらしき特撮映像の世界」(朝日ソノラマ)に、ショート・インタビュー「円谷英二の生涯を映画化するためのいくつかの資料」が掲載される。

70代(1980年代)

1980年(昭和55年)69歳

ドラマ編LP「スーパー怪獣ゴジラ映画シリーズ 怪獣王ゴジラ2」(日本コロムビア)のライナーノートに『初代「ゴジラ」誕生の秘密』を寄稿。
3月、初の劇場用長編「ドラえもん のび太の恐竜」と2本立てで『モスラ対ゴジラ』が再編集・短縮版でリバイバル上映される。
9月発行の同人誌「ネオ・フェラス NEO FERAS 別冊1号~ラドン・モスラ絵コンテ集」に誌上インタビュー(直筆アンケート)掲載。

1981年(昭和56年)70歳

8月15日、東京・中野公会堂で開かれたアマチュア主催の「第1回アマチュア連合特撮大会」に招かれ、平田昭彦と共にトークショーに出演。
一瀬隆重監督の自主映画「理想郷伝説」のパンフレットにメッセージ『若い芽!』を寄せる。

1982年(昭和57年)71歳

夏頃、アメリカで初めて『ゴジラ』(オリジナル版)がニューヨーク、シカゴなどの一部劇場で上映された。
8月21日、前年に引き続き「第2回特撮大会」(東京杉並公会堂)に招かれ、自主映画コンテストの審査員・プレゼンターを務める。
8月に開催された第7回「湯布院映画祭」で『空の大怪獣ラドン』が上映され、パンフレットに『ロケの思い出』を寄稿。
11月28日、東京・千代田劇場にて東宝創立50周年記念特別企画「東宝半世紀傑作フェア」の一環で『ゴジラ』『モスラ』『空の大怪獣ラドン』が上映され、田中友幸、平田昭彦、小泉博、佐原健二と共に舞台挨拶に出席。

1983年(昭和58年)72歳

「東宝特撮映画全史」(東宝株式会社出版事業室)に『私と特撮映画』を寄稿。
8月5日、日比谷公会堂で行われたコンサート「伊福部昭:SF特撮映画音楽の夕べ」のプログラムに『”伊福部音楽”の想い出』を寄稿。当日はゲストの田中友幸、司会の平田昭彦と共に舞台挨拶をした。
8月、全国5カ所の東宝系劇場で”ゴジラ1983 復活フェスティバル”が開催され、本多監督の『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』等を含む10作品を上映。
10月刊行、香山滋「怪獣ゴジラ」(大和書房)のカバーにメッセージ文を寄せる。
12月発行のムック「Super Visual Series ゴジラ」(徳間書店)に『若いファンは、新しい日本製の特撮映画を待望している。』を寄稿。

1984年(昭和59年)73歳

黒澤明監督「乱」の演出補佐を務める(85年公開/クリス・マルケル監督のドキュメンタリー「AK – ドキュメント黒澤明」に撮影中の姿が収められている)。
1月から9月にかけて発売されたビデオ「東宝怪獣・SF大百科」全11巻(東宝ビデオ)の構成・演出を担当。
4月、札幌の映画館「シネマ23」で行われた『フランケンシュタイン対地底怪獣』『サンダ対ガイラ』上映会に録音メッセージを寄せる。
「宇宙船」18号~22号(朝日ソノラマ)に、酒井敏夫(竹内博)によるロング・インタビュー「特撮をめぐる人々・本多猪四郎」が連載される。
カセットテープ10巻組BOX「ゴジラ 東宝特撮映画音楽全集」(日本ディスクライブラリー)の解説ブックレットに『視覚と聴覚の総合芸術』を執筆。
12月、監修を務めた復刻資料集「ゴジラ・コレクション」(竹内博・編/国書刊行会)発売。同書にメッセージ「ゴジラ・コレクションに寄せて」を寄稿。

1985年(昭和60年)74歳

8月発行の同人誌「猫亭通信 第二輯(平田昭彦追悼号)」に『平田昭彦君』(談)を寄せる。
翌年にかけて発売された「東宝SF特撮映画シリーズ」VOL.2~5(東宝株式会社出版事業室)に、鳴海丈ほかによるロング・インタビューが掲載される。

1986年(昭和61年)75歳

大林宣彦監督「漂流教室」に、きみ夫人と共にカメオ出演。
「特撮未使用フィルム大全集」(東宝ビデオ)にインタビュー映像が収録される。

1987年(昭和62年)76歳

山名兌二監督「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」に神父役で出演。
9月、東京・五反田の東洋現像所(現IMAGICA イマジカ)で行われた”監名会(監督と共に名画をみよう会)”で『ゴジラ』が上映され、講演を行う。
12月刊行「全集黒澤明」(岩波書店)第二巻に『撮影余話』として「野良犬」に関するコメント掲載。同書の月報に『青春カット・バック』を寄稿する。

1988年(昭和63年)77歳

第2回「伊丹映画祭」で自主映画の特撮作品に与えられるグリーンリボン賞の審査委員長を務め、ファン交流会のトークイベントに出席。
大林宣彦監督「異人たちとの夏」に八目鰻屋の主人役で特別出演。

1989年(平成元年)78歳

黒澤明監督「夢」の演出補佐を務める(90年公開/大林宣彦監督によるドキュメンタリー「メーキング・オブ・ドリームス 黒澤明・大林宣彦映画的対話」に撮影中の姿が収められている)。
「文藝春秋」2月号の特集<50人の昭和史>に『米国に二万五千ドルで売られた「時代の子」ゴジラ』を寄稿。
3月2日付「毎日新聞」夕刊に取材記事掲載。
開田裕治画集「GIGA 怪獣戯画」(バンダイ)に、序文『感!! 怪獣戯画によせて』を執筆。
年末発売の「BRUTUS」90年1-1/15合併号に、ミニ対談「次のゴジラは俺が撮る! アレックス・コックスvs本多猪四郎」が掲載される。

80代(1990年代)

1990年(平成2年)79歳

黒澤明監督「八月の狂詩曲(ラプソディ)」の演出補佐を務める(91年公開/手塚眞監督によるドキュメンタリー「黒澤明 映画の秘密」に撮影中の姿が収められている)。
1月1日付「新潟新聞」夕刊ほか全国紙にSFX映画をめぐる実相寺昭雄監督との対談が掲載される。
日本映画監督協会による記録映像シリーズ「先輩監督インタビュー わが映画人生」に出演(1月24日収録/聞き手・坂野義光)。CSの日本映画専門チャンネル等で放送された。
札幌のミニコミ誌「ごもく映画通信」(編集・発行 ファニーフェイス)に、エッセイ『ムービー夜話』の不定期連載を開始(93年3月号の第8回で中絶)。
「ぴあCINEMA CLUB ’90 邦画篇」にインタビュー記事掲載(取材・文=増当竜也)。
3月26日、アメリカの第62回アカデミー賞授賞式の衛星中継で、名誉賞を受賞した黒澤明にスタッフを代表して祝福のメッセージを贈る。

1991年(平成3年)80歳

「小説CLUB」3月号にエッセイ『味噌帳』を発表。
鳴海丈の小説「修羅之介斬魔劍」第4巻(角川書店)の巻末エッセイ『作品と資料』を執筆。
4月11日、有楽町・朝日ホールで行われたソニーPCL創業40周年記念イベント「黒澤明と若者たちとの対話」に黒澤監督と共に出席。「八月の狂詩曲」の試写会後に行われた質疑応答の模様は6月9日、NHK-BS2にて「黒澤明のすべて 黒澤監督”世界の若者と語る”」と題して放送された。
「キネマ旬報」6月上旬号「八月の狂詩曲 黒澤映画の魅力を語る」にて山田洋次と対談。
9月22日、佐賀県富士町の「古湯映画祭」に招かれ講演を行う。同パンフレットにコメント文を寄稿。
「宝苑」11月号の「ゴジラvsキングギドラ」特集にエッセイ『「ゴジラ」と私』を寄稿。
「キネマ旬報」12月下旬号に「ゴジラを創った監督たちの時代~本多猪四郎と大森一樹の対話」(古湯映画祭での対談の採録)掲載。
12月12日放送、テレビ朝日「トゥナイト」の「ゴジラvsキングギドラ」特集にVTR出演。
12月刊行のムック「東宝怪獣グラフィティー」(近代映画社・スクリーン特編版)にインタビューが掲載される。

1992年(平成4年)81歳

黒澤明監督「まあだだよ」の演出補佐を務める(93年公開)。
「オール讀物」2月号「映画「ゴジラ」と私の青春」にて井上ひさしと対談。
6月発行の「黒澤明研究会誌」No.10にインタビュー「怪獣映画と原子爆弾~本多猪四郎監督を囲んで」掲載。
「週刊現代」7月25日号「人物ワイド・ニュースな男と女」に紹介記事掲載。
9月、樋口尚文による研究書「グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代」(筑摩書房)が刊行される。
「毎日新聞」夕刊のコラム「あした天気になぁれ」(全5回)、「朝日新聞 秋田版」の「庄内ひともよう」で取材記事が連載される。

1993年(平成5年)

2月28日午後11時半、呼吸不全により永眠。享年81。
3月6日、世田谷区・成勝寺会館において無宗教による「お別れの会」が営まれた。
1月発行「東宝SF特撮映画シリーズVOL.7 ゴジラvsモスラ」に生前最後のインタビューが収録されている。
3月11日、テレビ朝日「M10」で追悼番組を放送。
「週刊文春」3月18日号に追悼記事「さらばゴジラの父 本多猪四郎」掲載。
「週刊プレイボーイ」3月23日号に「追悼・本多猪四郎監督 ありがとう、”ゴジラ”は永遠に不滅です!」掲載。
「キネマ旬報」4月下旬号に追悼記事(樋口尚文「さようなら本多猪四郎監督」、読者投稿)掲載。
「宝苑」4月号に追悼記事掲載。
4月17日、最後の仕事となった「まあだだよ」公開。
4月発行の同人誌「ボイス最終号~特集・本多猪四郎」に下川進による追悼記事と、91年の「第8回 古湯映画祭」における講演(評論家・西村雄一郎との対談)の完全採録版が掲載される。
5月、東宝よりLD「野良犬」発売。解説書に寄せた『「野良犬」の思い出』が遺稿となった。
5月10日発売の角川書店「月刊ニュータイプ」6月号に追悼記事掲載(文=中島紳介)。
6月1日発行「宇宙船」93年春号(VOL.64)に竹内博による追悼文掲載。
6月発行「ゴジラマガジン」VOL.2(勁文社)で緊急追悼企画が組まれる。
アメリカの映画雑誌「CULT MOVIES」no.9に、デビッド・ミルナーによるインタビュー(92年12月16日収録)が掲載される。
9月発売のオリジナル・ビデオ・アニメ『BIG WARS 神撃つ朱き荒野に』(荒巻義雄原作、滝沢敏文監督)のエンドクレジットに”本多猪四郎監督の思い出に捧ぐ”の献辞あり。
10月22日、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀~ゴジラの誕生」放送。
12月刊行の「東宝SF特撮映画シリーズVOL.8 ゴジラvsメカゴジラ」に中野昭慶、梶田興治の追悼文が掲載される。同じく「ゴジラ大百科 メカゴジラ編」(学研)では、本人の未公開ロング・インタビューを中心に追悼企画が組まれた。

1994年(平成6年)

6月公開の映画「女ざかり」(大林宣彦監督)に写真出演。
8月、東京・三軒茶屋のAMS西武にあった「スタジオAMS」にて、一般映画のみを集めた特集上映「検証!日本の映画監督たちvol.17 本多猪四郎特集」PART1~3が行われた。
12月、生前のインタビューをまとめた『本多猪四郎「ゴジラ」とわが映画人生』(実業之日本社)が刊行される。

1996年(平成8年)

12月公開の「モスラ」(米田興弘監督)に写真出演。

1998年(平成10年)

9月6日、黒澤明死去(享年88)。

2000年代

2000年(平成12年)

5月、竹内博・編による写真集「本多猪四郎全仕事」(朝日ソノラマ)刊行。

2001年(平成13年)

CDボックス「東宝特撮チャンピオンまつり」(バップ)の解説ブックレットに、1987年に東洋現像所(イマジカ)の上映会で行われた講演が『ゴジラ誕生前夜』と題して採録される。
11月発売「週刊少年マガジン」52号、および12月5日発売の2002年1号に安宅一也・作「ゴジラを創った男達 本多猪四郎物語」前・後編が掲載される。
同、キネ旬ムック「黒澤明:天才の苦悩と創造」(キネマ旬報社)に、黒澤明・植草圭之助・野上照代と共に参加した「幼少期の記憶『蝦蟇の油』のための座談会」が収録される。

2004年(平成16年)

4月、ニューヨークにある「フィルムフォーラム」を皮切りに、全米のアートハウス系劇場で生誕50周年を記念して『ゴジラ』が一般上映された(12月まで)。
12月公開のゴジラ生誕50周年記念作品「ゴジラ FINAL WARS」(北村龍平監督)が、冒頭の献辞で田中友幸・本多猪四郎・円谷英二の3人に捧げられる。

2006年(平成18年)

11月刊行「映画をたずねてー井上ひさし対談集」(ちくま文庫)に92年の「オール讀物」の対談が収録される。

2007年(平成19年)

2月、公式サイト「ishirohonda.com」開設。

2008年(平成20年)

11月、英語版公式サイト開設。

2009年(平成21年)

株式会社本多フィルム発足。
6月12日放送のバラエティ番組「世界を変える100人の日本人」(テレビ東京)で”ゴジラにこめられた反戦のメッセージ”として、その映画人生が紹介される。
10月10日・11日、山形国際ドキュメンタリー映画祭2009にて「ゴジラを撮った男──本多猪四郎特集」開催。『伊勢志摩』『夜間中学』『サンダ対ガイラ』ほかの上映と本多隆司によるトークショー(金子修介監督も参加)、中島春雄によるトークショーが行われた。

2010年代

2010年(平成22年)

5月、生誕100周年記念として、黒澤明と並んで第19回(2009年度)日本映画批評家大賞の審査員特別賞が贈られる。
10月より全国25局のコミュニティFMにて「生誕100周年記念番組 こちら!本多猪四郎研究所」放送開始(2012年3月まで)。
11月6日、福島県喜多方市のKITAKATA CITY FMにて「第一回 こちら!本多猪四郎研究所 研究発表会~生誕百周年記念 本多猪四郎、『ゴジラ』とその映画人生」と題するトークイベント開催。
12月、ワニブックスPLUS新書より『「ゴジラ」とわが映画人生』が復刊される。

2011年(平成23年)

1月16日、東京阿佐ヶ谷の「阿佐ヶ谷ロフトA」にて、生誕100周年記念プレイベントが開かれる。
1月17日、生誕100周年記念スペシャルサイト「hondaishiro100.com」開設。
3月5日、調布映画祭2011(調布市文化会館たづくり)にて、「偉大な映画人の足跡 本多猪四郎生誕100年 ゴジラに神を宿した男」と題するトークショー、演奏会、上映会の三部構成によるイベント開催。トークショーには佐原健二、久保明が出演、代表作である『ゴジラ』『マタンゴ』『妖星ゴラス』の3本が上映された。
6月、樋口尚文・著「グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代」が国書刊行会より復刊される。
7月23日、あばしり道の駅「第3回夕市まつり」(北海道網走市)にて、協賛イベント「こちら!本多猪四郎研究所 トーク&特別上映会」開催。
8月19~21日、東京都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島公園内)において、資料展示による生誕百周年イベント「本多猪四郎~映画に込めたメッセージ~」開催。21日にはトークショーも行われた。
8月発売の「特撮をめぐる人々 日本映画 昭和の時代」(竹内博・著/ワイズ出版)に84年「宇宙船」の連載インタビューが収録される。
10月8日、山形国際ドキュメンタリー映画祭2011の特集プログラム「やまがたと映画」において「ゴジラを撮った男──本多猪四郎監督生誕100周年記念」と題し、「わが映画人生 本多猪四郎」および『空の大怪獣ラドン』『南国の肌』を上映。大森一樹監督を招いてのトークショーも行われた。
10月22日、郷里の湯殿山注連寺にて「出羽の古道 六十里越街道フォーラム」が開かれ、生誕百周年の特別法要と「六十里越街道が育んだゴジラの世界」と題するトークショーが行われた。
11月12日、第14回古石場文化センターまつり(東京江東区)にて、生誕100周年記念の資料展示およびトークショー開催。

2012年(平成24年)

10月27日、鶴岡市の注連寺にて本多きみ、本多隆司によるトークショー「ゴジラのトランク」開催。
12月17日、本多きみ・著「ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情」(宝島社)刊行。
12月20日、NHK BSプレミアムにてドキュメンタリー「イノさんのトランク 黒澤明・本多猪四郎 知られざる絆」 が放送される。

2013年(平成25年)

2月28日~3月31日、東京・中野のアクターズ・ステーション・アカデミーにて「ゴジラのトランク展」開催。遺品のトランクと手紙、日記、手帳その他の資料展示やトークショーが行われた。
8月に日本公開されたアメリカ映画「パシフィック・リム」(ギレルモ・デル・トロ監督)のエンド・クレジットに”この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ”の献辞あり。

2014年(平成26年)

4月から6月にかけて東京杉並の「ラピュタ阿佐ヶ谷」にて”監督・本多猪四郎の陽だまり ゴジラの足もとの小さなドラマ”と題する一般映画の特集が組まれ、『若い樹』『恋化粧』『おえんさん』ほか9作品が上映された。
6月より、ゴジラ生誕60年を記念してデジタルリマスター版『ゴジラ』が全国東宝系で順次上映。アメリカの一部劇場でも上映された。
7月23~25日付け「山形新聞」に本多隆司、宝田明、中島春雄のインタビュー構成による記事「ゴジラを撮る 公開60年 鶴岡出身 本多監督の人間像」掲載。
7月~8月、インターネットの「キネマ写真館 日本映画写真データベース」(映画演劇文化協会)で3回にわたり「ゴジラと娯楽と文藝と─本多猪四郎の映画世界」を特集。
8月発売「初代ゴジラ研究読本」(洋泉社)に、1981年に開かれた第1回アマチュア連合特撮大会の平田昭彦とのトークショー、および1990年収録の日本映画監督協会による映像インタビュー「わが映画人生」の内容が採録される。
11月6日、切通理作による評伝「無冠の巨匠 本多猪四郎」(洋泉社)刊行。

2015年(平成27年)

9月10日、小林淳・著の研究書「本多猪四郎の映画史」(アルファベータブックス)刊行。

2016年(平成28年)

7月16日~8月21日、山形県鶴岡市の鶴岡アートフォーラムで開催された「ゴジラと特撮美術の世界展」にて”映画人 本多猪四郎”と題する特設展示が行われた。
7月、4Kデジタルリマスターで修復された完全版の『キングコング対ゴジラ』が、CS放送および一部劇場で上映。10月25日より開催の第29回東京国際映画祭でも特別上映が行われた(11月1日)。
12月発売の「特撮秘宝」VOL.5(洋泉社)で小特集が組まれる。
同じく12月発売の「小説野生時代」2017年1月号(角川書店)に、本多監督と2.26事件を題材にした植松三十里の小説「逆襲」が掲載される(2017年刊行の連作小説集「雪つもりし朝 二・二六の人々」に収録)

2017年(平成29年)

出身校の日大芸術学部が自主製作し、監督を務めた56年公開の中編映画『夜間中学』が初めて映像ソフト化(DVD発売)される。
10月、アメリカで初の本格的な評伝『ISHIRO HONDA A LIFE IN FILM,FROM GODZILLA TO KUROSAWA』(Steve Ryfle and Ed Godziszewski with Yuuko Honda-Yun)が刊行される。

2018年(平成30年)

11月3日、本多きみ死去(享年101)。
タイムトラベルをテーマにしたアメリカのTVドラマ「レジェンド・オブ・トゥモロー」の第4シーズン・第5話で、
1951年の東京の撮影所を舞台に映画監督・本多猪四郎が重要な役柄で登場する。