はじめに
この文章は、本多猪四郎監督が旅立たれた翌年である94年、月刊誌「宝島30」2月号と3月号の二回にわたって掲載されたものです。それをこのたび、本「本多猪四郎」サイトにて、数回かに分けて連続掲載させていただくことになりました。
本文にあるように、本多監督の演出になることなく復活して十年を迎えたこの時点でのゴジラ映画のシリーズに飽き足らなかった筆者が、本多監督の作品にはあって、今(当時)の作品にないものは何だったのかを提言しようと思って書いた原稿です。
この提言にどの程度影響力があったのかはわかりません。しかしこの後作られた平成ガメラシリーズや(アメリカ版の後を受けた)新生平成ゴジラシリーズには、本多監督の作品にあった、緊張感の共有の中で人々がキビキビと動く機能美や、一度災厄から助かった者をもう一度ゴジラと遭遇させる恐怖の反復など原点に立ち返った視点が見られました。「監督・本多猪四郎作品にあったもの」を見つめ直そうという姿勢は、当時特撮映画を愛した人々の一方の見方であったことはたしかだと思うのです。
今回、転載のお話を頂き、この原稿をその当時の気運を記したドキュメントとして、明らかな誤字脱字や事実誤認以外はそのまま掲載していただくことになりました。
本多猪四郎監督夫人である本多きみさんをはじめ、当時の取材に協力してくださった方々に改めて感謝の意を捧げたいと思います。そして、一度発表した後、当方の力不足で採録されることなく眠っていたこの原稿を、ふたたび本多監督やその作品を愛する人々の目に触れる機会を与えて下さいました、ご子息の本多隆司さんに感謝いたします(切通理作)。
無冠の巨匠 本多猪四郎(上) (1)
切通理作
去年の日本映画の興行収入ベストテンが発表され、『ゴジラVSモスラ』は堂々二位に輝いた。一九八四年から復活した新ゴジラ・シリーズはすっかり東宝のドル箱になったようで、現在も正月映画として『ゴジラVSメカゴジラ』が公開されている。
ここ数年、ゴジラの新作は、秋の東京国際映画祭で全世界の観客に向けて先行上映され、僕もそこに足を運んでいる。会場には、一般公開まで待てないゴジラ・ファンたちが長い列をなす。ゴジラ映画復活前に怪獣映画五本立てオールナイトで見かけたようなおたく青年達が怪獣談義に花を咲かせてるのに混じって、子ども連れや、けっこう高齢の人もいる。しかし、僕を含めて皆、遠足気分でわくわくしているのがわかる。
しかし毎年、僕は同じ光景に出くわす。上映が始まり、虹色に輝く東宝マークやスタッフ、役者の名前がクレジットされると画面に向かって観客の拍手。そこまではオールナイトのときと同じなのだが、その熱気は、映画が進むにつれてみるみる冷めていくのだ。
映画が終わると観客はすっかり白けている。「まあ、こんなもんでしょ」とか「思ったよりもひどくなかったね」などという声があちこちから聞こえる。
今度の『ゴジラVSメカゴジラ』もそうだった。もったいぶらずに早々と登場する怪獣、新兵器、盛り沢山のアイデア、ハリウッド映画並みの細かいカット、次から次へとたたみかけるような素早い展開。そのどれもが観客をひとときも飽きさせないためのものなのに、なんの興奮もない。見ていられない。
ゴジラ映画に魅了されて成長した僕が、あれほど待望していたゴジラの復活。その夢がなかったのに、この空しさはいったいなんだろう。あの頃のゴジラにはあって、今のゴジラに足りないものとはなんだろう。それは単なるノスタルジーなのだろうか。
ゴジラ映画の魅力って何だ?
今でも昔のゴジラ映画がテレビで放映されたりすると、何十回も観て、話はもう全部記憶してしまっているのに、いつのまにか最後まで観てしまう。その異常なまでの吸引力とは何か。
怪獣はなかなか出てこない。しかし退屈なわけではない。人間たちのドラマ自体に引き込まれ、そのうちに怪獣映画であることを忘れてしまった頃、怪獣はぬっと姿を現す。
すると、それまでの日常は一挙に戦時下に引き戻される。灯火管制で真っ暗になった夜のビル街にサーチライトが伸び、その下で、キビキビと作戦行動をとる自衛隊と、配置につく戦車隊。緊張感と裏腹になんだかワクワクしてくる。
やがて対策会議が始まる。オロオロするばかりの政治家に代わってイニシアティヴを執る科学者たちの明晰な論理にこぶしを握ってうなずき、ついに「作戦開始!」の声がかかるや、勇ましいマーチとともに飛び交う銃弾、砲弾、レーザー光線の乱舞にしばし忘我する。
怪獣や宇宙人たちをみごと撃退すると、音楽は一転して切なげなメロディに変わる。しかし、彼らの断末魔を見届ける自衛隊員たちは、いっさいの感情を交えず「撤収!」とだけ叫んで去っていく。
観終わった後の疲労感と満足感は、『戦争と平和』などの国民的規模の戦争史劇のそれと同じだ。耳にタコができるほど「戦争はいけない、軍隊は悪い」と聞かされて育った戦後民主主義世代としては抵抗を覚えなければいけないのに、ついつい興奮させられてしまうのだ。
しかし、こうやって魅力の部分を書き出してみると、たとえ過去のゴジラ映画でも、そうした魅力を持つ作品は限られていることに気づく。また、怪獣が登場しない特撮映画にも、この魅力がある作品は多い。その作品とは、『ゴジラ』『モスラ』『ラドン』『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『妖星ゴラス』『サンダ対ガイラ』……。早い話、それらは実はみな「監督・本多猪四郎」とクレジットされた作品なのだ。
本多監督の功績は……
去年の二月二八日、その本多猪四郎さんが亡くなった。享年八二歳。彼の作った『ゴジラ』は、海外で最初に大ヒットした日本映画であり、「イシロー・ホンダ」の名はクロサワと並んで多くのハリウッド映画人の尊敬を集めていた。だが、その名は日本では早くも忘れられつつある。「ゴジラ生誕四十周年記念映画」と銘打たれた『ゴジラVSメカゴジラ』の冒頭に、僕は当然、「故・本多猪四郎に捧げる」という献辞が出るとばかり思っていた。だが、そんな文字はどこにも見当たらなかった。死に際して追悼番組が組まれることもなかったし、これだけ山のように出ているゴジラ関係の本の中でも本多監督を中心に扱ったものは一冊もない。
なぜかといえば、日本の映画研究者の間ではゴジラを生んだ功績は、特技監督・円谷英二のものと考えられ、本多監督はその影に隠されてしまっているからだ。円谷英二に加えて、第一作の原作者・香山滋やプロデューサー・田中友幸の名が挙がることもあるが、監督の本多猪四郎さんは、契約社員として会社の企画に黙々と従い、特撮のツマにすぎない本篇を地味に手堅くまとめただけの職人とされることが多い。「特撮映画は撮影所のものである」として、本多さんの作家性を否定しようとする傾向さえある。
実は、本多さんの名を冠した本はいちおう一冊だけある。樋口尚文の『グッドモーニング・ゴジラ/監督・本多猪四郎と撮影所の時代』だ。だがこの本は、本多監督へのインタビューを元にしながら、彼を狂言まわしにして、かつて日本にあった撮影所システムを語るだけで、実質的に本多監督を、東宝のプロデューサー・システムの下で器用に、堅実に仕事をこなしていた職人に過ぎないと決めつけたものだった。
結果として樋口は、ゴジラを作った功績を独り占めしようとするプロデューサー・サイドに加担してしまっている。この本が、本多さんが亡くなった今、唯一の研究書ということになっていることを、僕のまわりの特撮映画ファンは悲しんではいるが、おとなしくて論争を嫌う彼らは、声高に反論しようとしない(本多さんも、自作のテーマを主張したり、自分の功績を誇ったりすることは一度もなかった、監督には珍しいほどおとなしい人だったという)。
樋口は、自分の企画で撮れないプロデューサー・システムの下での監督は「作家」とは呼べないと言う。本当にそうだろうか。作家性とは、与えられた素材を具体的に活かしていく描写の積み重ね方、その手つきにこそ出るものではないだろうか。
僕は、否定されがちな本多さんの固有の「作家性」を検証していこうと思う。そうしなければ、本多猪四郎という世界に誇れる才能が、映画史の中から黙殺され続ける危機を感じるからであり、それが今のゴジラ映画、ひいては今の日本映画が見失っているものを模索することになると思うからだ。
切通理作