主人が逝ってもう十四年が過ぎました。五十四年間一緒に暮らした日々を思い出してみました。
いつもいつも穏やかな人でした。 私も子供達も大きな声を出して叱られた事は有りません。
たまたま家にいる時はほとんど自分の部屋で読むか、書くか、見るかでした。
仕事仕事で大好きな映画を見る時間もなく、たまたま暇が出来ると一日に三本のハシゴです。
その頃小学生だったせがれを連れて出かけても同じです。 その時にどうしても自分が見たい映画を観るのです。
子供も大した物です、帰ってきて”今日の映画は良かったよ!” ”何を観たの?” ”終着駅だよ” ??????
”わかるのかよ?”と思いました。
雨が降ってロケが中止になった日、大男の父親と小さな男の子が長靴を履いて、傘を差して上野の美術館です。
”天才教育ですか?”なんて言われちゃったよ、なんて笑ってました。 そのうちの子供は中学、高校と大きくなり、自分の世界が出来てきました。 その頃からが彼の一番忙しい時代です。時には難しい日もありました。そんな時は周りが静かにしていればいいのです。
お酒は大好きでした。 でも一人でしこしこは好みません、いつも数人の友人、スタッフが来てて楽しそうでした。その頃、大学生になったせがれがゴルフ部に入ると言い出した時、二年でシングルになれるならやれ!! 気が付いたらシングルになってました。 それはそれは嬉しいやら、悔しいやら・・・・・・幾ら頑張ってもなかなか上手にならない中年の悲哀でしょうか。 兎に角、半分大人で半分子供みたいな人でした。
いつもいつも静かで穏やかなあの人の中にゴジラ達諸々が巣を作ってるのが不思議です。 六十歳になって東宝を離れてフリーになった頃、ちょうど孫がそばに居りました、3歳位の孫と散歩に出かけ、急に雨が降り出し、心配していたら車にも乗らず二人で大きなイモの葉をかざして、びしょぬれで帰ってきました。
そんな孫も家族でアメリカへ移り住んで行き、そんな時、黒沢さんとの再会です。
この事は皆様も知ってる通り黒沢と本多の幸せな、充実した晩年でした。
その頃になって時々”君たちの為に時間を作ってあげた事は一度もなかった、一緒に旅行にも行かなかった、その事はとっても申し訳ないと思う”と度々言ってました。でも、 子供達は”そんな事感じてなかったよ・・・・・・・・” 大きな愛で、自由に育てられた事は幸せでしたね。
腹が立って怒ったら自分が辛い。 生ある物は死す、形ある物は壊れる。 疲れたとは今やってる事に飽きた事。 時折思い起こされるいい言葉を沢山沢山残してくれました。 亡くなっても私と子供達の心の中に”ドン”と座っています。
本多 きみ(妻) (2006.11)