本多猪四郎の思い出

本多 きみ

私は”ご苦労様でした”の一言です。

本多猪四郎の作品を選ぶとするならば一番は第一回作品の”青い真珠”でしょう。
大事な大事な青春時代を八年間も戦争に取られ、そのブランクはすごく長く、帰国して、東宝からも本社の方に来ないか?と言われた時、食べられなくても良い、撮影所は離れない!と自他共に誓って、何時の日かの為に黙々と勉強をして、やっとやっと自分の書いた脚本で撮れた作品です。
完成試写の日に「イノさん、おめでとう!」と一番先に飛んできてくれたのが山本嘉次郎さん(黒澤明、谷口千吉、本多猪四郎は山本嘉次郎監督の門下生、三羽カラスと言われていた)の顔がが今でも昨日の事のように浮かんできます。

その後も次々と映画を作りました。ホームドラマ、青春物といつもその時を精一杯、そして楽しそうでした。

そんな時に特攻隊の話が入ってきました、たくさんの資料と皆さんの書かれた遺書。毎日毎日書斎に入り、色々の事を考えたと思います。結局、今の自分には画けない、と断りました。
八年間の戦争の傷跡は頭の中、心の中に計り知れない位染みついて居たと思います。その後、戦争の話としては山本五十六大将を題材にした山本嘉次郎さんの「太平洋の鷲」 でした。これは山本嘉次郎さんの書かれた脚本、お話して頂いた言葉から自分に共感の持てる物だったと言ってました。
私もこの作品は大好きな一つです。

どんな作品でも産みの苦しみ、楽しみがあったはずです。
そんな時にゴジラです。
今さら私が語る事でもありません、海の物か山の物かだれも想像は出来ませんでした。
皆さんの協力、そして本人のねばり、努力・・・・・・・・・・・・
「こんなばかばかしい話があるか?と思う人は降りて下さい!もし、原爆の落とし児が何年後にか、こんな形で現れたらと考えられたら一緒にやりましょう」此は俳優の皆さんにいつも言ってました。
長い長い日数をかけて出来あがりました。
後はまな板の鯉です、作品がどう評価されるか?
でも、開けたら当時の日劇を三周りする程の観客の列でした。一緒に苦労したスタッフも喜んでました。
でも、これからが大変です。自分がやりたい思っていたドキュメンタリーも、さわやかな青春物もお預けで次から次へと特撮物です。でも子供の時から科学の好きな人でしたからそれぞれを楽しみ、特に宇宙大戦争とか、マタンゴの時はそれぞれの研究をされてる”東大”に毎日勉強に通っていました。
でも、インタビューの時なぞ、どの作品が?と聞かれると、どれもこれも一生懸命やったけど満足とは言えないね。と答えてました。

六十歳になった時、突然東宝を辞めると言いました、本人が何かを感じたのでしょう、私も賛成しました。それからの十年はゴルフをしたり、画を見に行ったりしてました。

七十歳。これからが黒沢さんとの二人に世界です。
山さん(山本嘉次郎監督)の助監督の時みたいに二人でやろう、と黒さん(黒澤明監督)に言われ、俺が邪魔じゃなかったら良いよと・・・・・・・・・・・それからの二人はいつも一緒でした。本を書く時も、ゴルフに行くのも・・・・・・初めは本多が黒沢組に居る事を不思議に感じた人が沢山居りました。アメリカの方も・・・・・・・
一本、二本と仕事をしているうちに黒沢さんの隣の本多が居る事を当然の事とみんなが感じるようになりました。最後まで良い友達と好きな仕事が出来た二人は本当に幸せでした。だから何も言わずあんな素敵な顔で逝ってしまったのでしょう。