小林晋一郎
目の前に一枚の色紙があります。
『黙々与天語 黙々与天行 映画監督 本多猪四郎』
正真正銘、あの本多監督から直々に頂戴したお言葉です。
帰天される数年前から、幸運にもご自宅に伺い、何度かお話をさせていただく機会がありました。同人誌時代からの知己である編集者の中島紳介氏、イラストレーターの開田裕治氏、小説家の鳴海丈氏らに同伴する形でしたが、ドアを開け、にこやかに我々を迎えて下さったときの感動を、今も忘れることはできません。
哲学者のような風格を湛えた全身からは、静かなオーラが発せられ、長身で立派な体格がさらに大きく見え、ただ圧倒されるばかりでした。
ああ、これがあの本多監督、小学生の頃から憧れてやまなかった、東宝特撮映画の巨匠・本多猪四郎監督なのだ、と思っただけで、胸が熱くなるのでした。
元はと言えば、ゴジラ30周年記念大作の翌年、1985年のゴジラ原作公募に拙作が佳作入選し、幸運にもそれが採用されて、シリーズ17本目のゴジラ映画『ゴジラVSビオランテ』として製作されたことが御縁です。
当時、脚本・監督の大森一樹氏は「『海底軍艦』こそ我が映画人生の原点」と公言し、現場では『怪獣大戦争』マーチを鳴らしつつ、「いやあ、『メカゴジラの逆襲』はよう出来とるわ」と笑いながら撮影していらっしゃいました。また、満を持して登場の川北紘一特技監督は、それこそ『キングコング対ゴジラ』の頃から本多監督と同じ現場で活動して来られた生え抜きのスタッフです。お二人をはじめ、本格的なゴジラ映画をもう一度、という全スタッフの熱い思いは、換言すれば本多監督へのオマージュに直結していたのです。
現場に携わる誰もが、本多監督の話題になると、みな少年のような笑顔で熱く語り始めるのです。深い尊敬と憧憬が満ちていました。『ゴジラVSビオランテ』は、間違いなくその結晶として生まれた作品で す。
でも、監督ご本人を目の前にして、私には恐れ多くて、とても直接には感想を伺うことはできませんでした。その後も何度かお目にかかり、歓待していただくうちに、ようやく許されたような安堵の思いを実感したものです。我が国のスクリプターの草分けである奥様や、お嬢様の美味しい手料理とお酒を戴きながら、ただ嬉しく、興奮し、酔い痴れるばかりでした。監督は飲めども乱れず、抜群の記憶力と豊富な話題で、夜の更けるまで実に楽しい語らいが続くのです。
底知れぬバイタリティに感服した私が、日々の疲れや愚痴をポロリと漏らすと、監督は「僕は疲れたなんて思ったことはないよ。好きな仕事をして、それで『疲れた』なんて言ったら申し訳ない」と笑顔でおっしゃるのです。――ああ、監督はこの志で映画を創造して来られたのだな、と感激し、我が身を恥じる思いでした。その志、その姿勢は、まさしく冒頭に掲げた色紙のお言葉と一致しているのです。
偉大なり、本多猪四郎監督――誰もが慕い、憧れた理由は、単に作品に寄せる称賛だけではなかったのです。
2008年1月17日