思いがけない出会い

エド・ゴジシャスキ

 このウェブサイトにある竹内博さんのメッセージを読ませていただき、私の初来日のエピソードが書かれていることを見てびっくりしました。この日は私にとって、人生でもっとも思い出深い日の一つでもあります。

 かれこれ30年も昔の話しですが、1979年7月に私は初めて日本を訪れました。真っ先に学んだことは、7月の日本というのは梅雨真っ最中でとてつもなく蒸し暑く、遊びに行くには理想的ではない季節だ、ということです。しかし、この旅中に体験できた素晴らしい出来事を想うと、多少の不快など大したことではありませんでした。
 日本には知り合いがほとんどいなかったため、出発前に私の友達であるビル・グドマンドソンにコンタクトし、彼の知り合いのサキ・ヒジリさんに私の来日中に東宝スタジオへの訪問をコーディネートしてもらうことが可能かどうか、問い合わせてもらいました。サキさんからは手紙のお返事をいただきました。この手紙には『東宝への訪問に関して、残念ながらオーケーです。』と書かれていました。これは外国語でコミュニケーションを取る難しさを表す一つのハイライト的エピソードとなり、数多くの興味深く最終的にはとても面白い体験の始まりにもなったのです。世の中このような『残念』なことだらけであればどんなに良いか…。

 日本に到着し、カズオ・スミヤさんとヒロシ・タケウチさんとお会いしました。お二人にはまず円谷プロへ、そして次の日には東宝スタジオへ連れていっていただきました。口頭のコミュニケーションには苦労しましたが、『怪獣ボキャブラリー』という万国共通な言葉を使うことによって、なんとか通じ合うことができました。しかし、東宝へ向かう前に「あまり期待をするな、SF映画というのはもう作られていない上、当時のものは何も残っていない」と忠告されました。それでも私としてはまったく気になりませんでした。思い出深く大好きな作品が実際に作られた場所を見れるだけで十分だったのです。

 しかし、その後にはまた思いがけぬ展開があったのです。タケウチさんにスタジオの敷地内を案内してもらい、円谷英二監督の昔のオフィスの場所などを説明してもらいながら正門へ向かいました。そこでタケウチさんが数分どこかへ行ってしまい、どなたかと一緒に戻ってきたのです。その方が誰だったかは、一目見て分かりました。本多猪四郎監督だったのです!『You could have knocked me over with a feather』ということわざは何度も聞いたことがありましたが、本当の意味はこの瞬間までは分かっていませんでした(直訳:羽毛のような軽いものでもノックダウンされてしまったかもしれない=びっくり仰天)。
 当時日本語の単語を一握りほどしか知らなかった私は、もっと勉強しておかなかったことをこの時ほど後悔したことはありません。かと言って日本語がペラペラだったとしても、あまりにも畏敬の念に打たれてしまい、一言もしゃべれなかったことでしょう。私はこの出会いに圧倒されてしまい、言葉も出ない状態でした。自分が人生で最も影響を受けた作品を監督なさった本多監督と握手をしているというこの事実。彼には聞きたいことが星の数ほどあったのにもかかわらず、ほぼ一言も発言できませんでした。
 このような出来事が起こり得るなど、想像すらしていませんでした。当時本多監督はすでに映画製作から引退されていたため、撮影現場は彼と最も出会わないであろう場所だとも思っていました。この短い時間の中で、言葉のバリアがあったとはいえ、監督のお人柄の暖かさを感じることができ、彼も我々と会う事に対して喜びを感じられていたようでした。あまり長くお話をすることができなかった理由は、丁度その時に本多監督は黒澤明監督と話し合いをしている真っ最中だった、ということを後になって知りました。(もしも黒澤監督もその時一緒に来られていたならば、私は失神していたことでしょう。もちろん、猛暑のために…)私たちの出会いはほんの数分でしたが、これは私の記憶に永久に刻みこまれた瞬間です。
 1979年の蒸し暑い7月のある午後、ゴジラとそのクリエーターに会うという私の夢をかなえてくださったタケウチさんには、心から感謝しております。

本多猪四郎とEd Godziszewski, Mike Paul, Ishiro Honda, Dave Studzinski記念写真
左からEd Godziszewski, Mike Paul, Ishiro Honda, Dave Studzinski

2009.07.24