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本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆

「101年目の本多猪四郎」特別編(下)

中島紳介

 

 そうした葛藤の中で生み出された本多のSF・怪獣映画はリアルだ、とよく言われる。特に怪獣を迎え撃つ防衛隊や避難する群衆の描写には、軍隊や戦場での厳しい日常も「映画を撮るときに無駄にならないし、無駄にしちゃだめだ」と考えて乗り切ってきた本多の経験が活かされているようで、黒澤が冗談まじりに語った「怪獣が来ても真面目に交通整理して群衆を避難させる警官。あれはイノさんの良心だよ」の言葉通り、登場人物の端々まで──戦時下の中国の人々との交流も含めて培った──自身の人間観、人生観を反映した肉付けを施していることがわかる。
 他社の怪獣映画に、臨戦態勢の防衛本部で兵士たちが「館林は全滅だそうだな」と世間話でもするように会話している緊張感の感じられない場面があったが、本多作品の公務員はみな無駄話をせず粛々と自分の使命を果たそうとする。それを「人間味が感じられない」と批判する人もいるが、映画のテーマはそれとは別のところにあることに気づくべきだろう。

 とはいえ、本多自身の戦争に関する発言はそれほど多くない。「戦争が終わったら撮影所に帰って映画を撮ろう。それだけで、案外気が変にならずに帰ってきたようなもんだね」と振り返り、年に数度は悪夢にうなされて飛び起きたというほどだから、家族にすらうかがい知れない過酷な体験をしてきたことは確かだ。あるいは戦争を繰り返し、自らの文明を破壊する核兵器を作り出した人類の愚行に対する不安から生まれたものだったのか……。
 時折「本多作品の登場人物は善人ばかりで面白みがない」「現実からかけ離れた理想主義で世界平和を唱えているだけだ」といった否定的な評価を見かけることがあるが、軍隊生活や戦場で命をやり取りした経験を経て生まれた作品が、それほど単純なものだろうか。そうした人間への信頼や平和への願いが、実は深い絶望の裏返しだったとしたら──と考える想像力はないのだろうか。本多のロング・インタビューを担当したこともある作家の鳴海丈は「監督から見て戦争の実像を描いたと思う映画はありますか?」という質問に、それまでの映画談義でほころんでいた笑顔が一転、厳しい表情で「ない。戦争は映画では描けない」と言い切った本多の言葉を聞いている。

 実は本多の戦争体験は、特撮映画に限らず一般映画でも背景に顔をのぞかせている。念願だった映画の仕事に就いて間もなく徴兵され、足かけ8年の間に現役・召集あわせて3度も中国大陸に派遣された本多は、他の多くの日本人と同様に人生の大切な時間を戦争に奪われた。その間に昇進した同期や後輩のもとで助監督を務めることも多くあったが、新人助監督の時代からカメラの横にいるのが何より楽しかったという本多は、映画の現場にいられるだけで満足だった。しかし、大好きな撮影所や家族と引き離され、戦場との往復を余儀なくされた本多に、そのようにして人間の自由を奪い翻弄する戦争、その元凶となった軍部の独裁に対する怒りがなかったはずはない。

 過去の刊行物で黒澤の発言を見ると、軍部独走に対する危機感を本多と話し合ったことが記されているが、実際、本多の映画にはマインド・コントロール的な発想がよく取り上げられる。『宇宙大戦争』の遊星人ナタールや『怪獣総進撃』のキラアク星人、『決戦!南海の大怪獣』のアメーバ状宇宙生物などによる地球侵略はどれも科学の力を使って人間や怪獣を道具(兵器)として操るところから始まったし、『怪獣大戦争』のX星人はすべての思考・感情・行動を計算機(コンピュータ)の管理のもとに画一化されていた。
 それどころか『続思春期』の権威主義に凝り固まった教頭も『こだまは呼んでいる』の封建的な資産家親子も、自分たちの価値観で相手を同じ鋳型にはめ込む独裁者的な存在として描かれる。本多作品における戦争の影は、怪獣と防衛隊の攻防戦だけにあるのではないことがわかるだろう。

 そして、それらの強圧をはねのけて自由に生きようと物語を牽引していくのは、山根博士や『海底軍艦』の神宮司大佐のような過去にとらわれた戦前・戦中派の父親世代ではなく、尾形や恵美子、旗中と真琴といった戦後世代であり、『若い樹』『お嫁においで』の主人公たちとも共通する、失敗を繰り返しながらも互いの壁を乗り越えていこうとする新しい価値観をもった青年像である。本多作品にこめられた若者たちへの期待は、もっと注目されていいのではないだろうか。

 このように本多の人間観や戦争体験を反映した作品の中で、円谷特撮だけが突出して評価されていたSF・怪獣映画は、60年代後半になるとテレビや出版物と連動した怪獣ブームの中で変質し、その人気とは裏腹に子供向け作品の代名詞として扱われるようになった。各社で競作と量産が始まり、怪獣キャラクターのインフレ状態から興行成績も不振となり、そのために予算を削られ、過去作品のライブラリー・フィルムを流用するなど映画としてスケールダウンしていく悪循環……。
 件のノートの記述から察するに50代から改めて特撮映画と向き合う覚悟を決め、その後は余裕さえ感じさせる演出力──シリアスとユーモアのブレンド、深みのある人物造型、乾いた暴力描写など──を発揮してきた本多が、そうした変化をどう見ていたのか。
 前出の鳴海丈と同様、たびたび本多を取材した映像評論家・特撮研究家の池田憲章がそのことについて尋ねると、本多は一瞬、考え込むようにしてから「人間が登場する以上、自分の出番はあると思った」と答えたという。

 人間と怪獣が関われば、そこにドラマが生まれる。ならば特撮だけでなく本編の演出が必ず求められると考えていた本多は、70年代前半の第2次怪獣ブームでは『帰ってきたウルトラマン』『ミラーマン』などのテレビ作品で、物語の世界観や基本設定、登場人物の性格を決定する第1話のような重要なエピソードを手がけた。
 さらに5年のブランクを経て、昭和ゴジラシリーズの最終作となった『メカゴジラの逆襲』で劇場映画の監督に復帰。かつて原水爆の恐怖をゴジラにシンボライズさせたように、怪獣を操りサイボーグ技術で生命をもてあそぶ科学の傲慢と、それを生み出す人間の深い業を『ゴジラ』の青年科学者役だった平田昭彦が演じるマッド・サイエンティストと滅びゆく運命にある侵略者に託すことで、まるで円環を描くように自らのフィルモグラフィーを閉じたのだった。

 かつての名コンビ、円谷英二はすでになく、久しぶりに戻った撮影所は大きく様変わりしていた。勧善懲悪が絶対のテーゼとなったテレビ作品からも「怪獣がかわいそうだ」と言って離れた本多は、戦地から持ち帰ったトランクの中身を整理して本にまとめる希望を持っていたというが【注】、特撮映画の新作に対する夢を捨てていなかったことは、遺されたノートや手帳に「群獣化するゴジラ」など断片的ながらアイデアの書き込みがあることからも察せられる。
 しかし、映画評論家・樋口尚文が指摘したように、特撮映画・怪獣映画のファンたちから神話的な存在のように扱われていた70年代末から80年代、そして90年代初頭にかけて、本多は盟友・黒澤の懇請を受けて現役の映画人として撮影現場に還っていった。共同監督を提案する黒澤に「監督が二人いたらおかしい」と応えて演出補佐の肩書きで参加したのは、特撮映画を手がけていた頃の複雑な思いゆえではなかったか……などと考えるのは穿ち過ぎだろうか。

 ともあれ、本多が描きたかったもの、描いてきたものは作品を見れば明らかだ。だが、それでもなお日本における特撮映画の第一人者≠ニいう定番の評価に隠れて、その全貌を掴みきれないもどかしさは残る。生誕100年、没後20年を経た現在もまだ探求は続いている。
 
(2013年「ゴジラのトランク展」パンフレット用原稿を一部改稿。文中敬称略) 

*注 2013年「ゴジラのトランク展」開催のため遺族によって開けられた。中身は軍隊手帳、出征の際に撮影所の仲間から送られた奉賀帳と壮行会出席者名簿、戦地で受け取った夫人や黒澤明からの手紙、任務の合間に描いたと思われるスケッチなど。


2016.11.17
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