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無冠の巨匠 本多猪四郎(第十三回)

■あれが最後のゴジラ

 七〇年代に入ってから、ゴジラ映画は本多監督の手を離れ、主に幼児向けの低予算映画として作られ続けていたが、七五年、再び本多監督がメガホンを取ることになる。監督と同じ成城学園前に住む脚本家・高山由紀子さんのシナリオを基にした『メカゴジラの逆襲』(75)である。これは、本多監督最後の映画となった作品で、<ゴジラとは何か? 怪獣とは何か?>ということを根源的な部分で問い直したものだった。
 『ゴジラ』一作目の芹沢博士――平田昭彦が演じる真船博士は、恐竜生存説を唱えて学会を追われた孤高の科学者である。彼が学会を追われた本当の理由は、彼の研究していた「生命をコントロールする」という発想が、神をも畏れぬものとして抹殺されたからだ。そして、この社会では誰も認めなかった真船の研究を評価し、協力を申し出たのは、地球を狙う宇宙人であった。
 真船は社会に復讐するため、娘の美少女・桂の身体をサイボーグ化し、彼女の身体に埋め込んだコントロール装置で、メカゴジラを操って、恐竜チタノザウルスと共に暴れさせる。桂が死ぬとメカゴジラは停止し、メカゴジラが倒されると桂も死ぬという運命なのだ。このハードなストーリーに、福田純監督の明るく楽しいゴジラ映画に慣らされていた子どもたちは驚いた。
「(怪獣映画というものの)登場人物たちの負ってる宿命をただ純化させていったわけです」
 本多さんと組んだ最後の脚本家となった高山さんはそう語る。
「本多監督が作られた最初のゴジラに戻すのがこの映画の目的でした。第一作はすべてのお手本だと思います。人間の存在をめぐる物語」
 『ゴジラ』一作目の古生物学者・山根と化学博士・芹沢を合わせたような真船の人物像は、かつての本多キャラクターよりもはるかにエキセントリックなマッド・サイエンティストになっている。彼は自分の復讐が貫徹出来るとすら思っていない。ただ自分で自分を追い込んでいくことにしか生きがいを見いだせない男であり、彼の狂気に、誘惑者の宇宙人ですら踊らされてしまう。
 「ゴジラは正義の味方」という当時の会社側の要請のなかで、本多監督は生存していた「恐竜」チタノザウルスを本来のゴジラ的存在として描く。ゴジラが存在する世の中なのに、恐竜生存説を信じてもらえない真船の孤独は、ゴジラの成功にもかかわらず振り返られることのない本編監督の存在をどうしても思い起こさせる。
 劇中、それまでの本多作品に登場した怪獣(キングギドラ、ラドン、マンダ)たちが映し出され、桂がこう言う。
「(恐竜)チタノザウルスも、あんな『怪獣』の仲間入りをするのね」
 シナリオにはない、この科白は、監督があえて付け加えたものだ。
 「復讐と憎しみ」を背負い「何も知らない大勢の人々の命を奪う」もの。それが本多監督にとっての「怪獣」なのだ。
 最後、真船は国際警察と宇宙人の銃撃戦のなか、宇宙人に盾に取られ、国際警察側の銃に撃ち抜かれて絶命する。娘・桂もまた、自分がサイボーグではなく、血の通った人間であることを証明するために愛する人の腕の中で自害する。
 地球の外敵と戦うゴジラはコントロールを失った二怪獣を倒し、円盤で逃げようとした宇宙人も全滅させる。真船も、桂も、宇宙人も、メカゴジラも、チタノザウルスも、全てが滅んでしまった後、独り残されたゴジラは、悲しい雄叫びをあげ、夕陽にキラキラと光る海の彼方に去っていく。その姿を大ロングの俯瞰で捉えたラストシーンを見て、幼い僕は「これでゴジラ映画も最後なんだ」となんとなく思った。
 本多作品の中で、ゴジラが背中を見せて去っていく映画は初めてだった。実際、『メカゴジラの逆襲』を最後にゴジラ映画は作られなくなった。

切通理作

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