誠実なる演出家 Messages へ
私が東宝に入社したのが昭和28年4月、第6期ニューフェースとして今は亡き、藤木悠、河内桃子、岡田真澄の三氏、そして今も渋い役どころを演じている佐原健二君と私。
1年間の養成期間を待たずして3カ月を過ぎた頃、面接によって私にとって最初の作品になった『かくて自由の鐘は鳴る』、これは福沢諭吉の伝記映画で私は増田宗太郎という大分中津藩の下級武士。その後すぐに『水着の花嫁』に出演し、昭和29年春ついに私は運命の出会いとなった作品『ゴジラ』の主役を演じる事になったのである。
長編空想科学映画と副題がついていた。つまり今でいうサイエンスフィクションである。
真紅の表紙に太く黒い字で『ゴジラ』と書かれていた。ここで更にその後十数年のお付き合いをすることになる心優しき物静かな映画監督、本多猪四郎先生との出会いだ。
撮影初日、ステージに入り「主役をさせて頂きます宝田明と申します、よろしく」と丁寧に挨拶した筈だが返ってきた答えは「お前が主役じゃない、主役はゴジラだ!!」とスタッフの誰かの声。思わずへたりそうになる私も廻りのスタッフの笑い声に救われた。
撮影に入る前の段階で本多監督とは何度もお目に掛かりその上、幸運なことに相手役は同期の河内桃子、そして研究所2年先輩の秀才、平田昭彦氏との共演で精神的には楽であったが。。。
初日の撮影の第1カットのテストに入る前、監督が近づいて来て「宝田君、緊張せずに自由に動いてごらん。判らないことがあったら全てボクに聞いてくれ」。私はこの言葉が未だに忘れられない。東宝としては社運をかけたこの作品、20歳になったばかりの私を抜擢して大きな賭けにでた訳で、私にもそれが痛いほどよく判っていただけにプレッシャーが大きかったのだ。私はお蔭様でその後も順調に多くの作品に出演してきたが、監督からこんなにも優しく慈愛に満ちた言葉をかけられたことはなかった。実はこの人間的な優しさが本多監督の全てを物語るのである。
さて、ゴジラの各ディテールは判っているのだが、実際に撮影に入ると特に特撮との関係で対象物であるゴジラの動き、大きさに対する我々演技者の目線の決め方があった。
目線にバラつきがあってはいけない。そこで当然の如く質問を投げかける。本多監督は共に考え乍ら「それはこうだと思います」。演技に関しても「うん、それでいいと思います」と実に誠実に答えてくれた。
それでも監督自身も質問に答える事が出来ず困られている事が度々あった。そこで特撮の円谷監督より送られて来る絵コンテを一同むさぼるように見ながら撮影を連続して行ったものだった。
炎天下の伊勢志摩巡視船上での撮影中、私が重装備の潜水服をつけ、暑さにふらふら言っているときも本多さんは「大丈夫か?もう少しだ。頑張れ」と気を遣ってくれた。

ロケ先の宿に田中友幸プロデューサー、本多監督、名優志村喬さん、河内君、平田君等で浴衣姿で食事を共にし、和気あいあいのうちにやはり話は当時の時代背景、特に原水爆の実験による被害、第五福竜丸の悲惨な現実に話が及び被爆地である日本は特に声を大にして世界に警告を与えるべきであり、急速な科学の進歩に先んじて我々は映像上に於いて強くそれを表現していくべきだと話は弾んだ。確かに科学文明の全てが人類の夢と希望とロマンを起点としたもので殺傷のための科学兵器は感心しないがそれ以外のものは必死になって人間の夢の実現のため後を追いながら進歩し続けている。
ゴジラを溶かし海の藻屑としてしまう発想のもとに考え出された「オキシジェント・デストロイヤー」なる科学兵器用語の誕生もあながち荒唐無稽な話ではない。
時として手探りの状況の中で試行錯誤しながら長い撮影は終了した。「初号」といって完成した作品を撮影所内の小さな試写室で関係者、スタッフ、キャストが見守る中で上映された。芝居の部分と特殊撮影の見事な合体、ゴジラの迫力には唯々唖然とするのみ。
やがてゴジラは科兵器によって白骨と化し、海底に沈みゆくその様は伊福部昭氏の荘厳な音楽と相まって実に感動的であり神々しくさえ思えてくる。私は止めどなく流れる涙をおさえ切れなかった。試写が終わり灯りがついた中で私はしばらく立ち上がれなかった。
泣きはらした私に向かって本多さんは「宝田君、泣いてたね。良くやってくれた」とやさしく声をかけてくれた。
1954年(昭和29年)11月3日、多くの期待と不安の中で全東宝直営館の総力をあげて封切られた。映画館で見ようとしても廊下まで客が溢れている。ドアを開けて背伸びしてスクリーンを見ている。結果は何と961万人、空前の大ヒットである。
当時の日本人口の約1割が見た事になる。私と河内、平田の3人は全国の封切館での舞台挨拶に明け暮れた。東宝の大きな賭けは当たったのだ。
翌、1955年東宝は小田基義監督で第2作『ゴジラの逆襲』を製作、834万動員、同年8月、私は本多監督と2本目の作品、『獣人雪男』を撮った。
1957年(昭和32年)、更に本多監督と『我が胸に消えず』第1部、第2部、をご一緒した。本多さんにしてみれば念願のストレートドラマであり大いに腕を発揮なさった。
1962年(昭和37年)ゴジラ映画第3作、『キングコング対ゴジラ』に取り組んだ本多監督は、ついに不滅の金字塔を樹立したのだ。観客1,256万人、空前絶後の記録である。2年後の1964年(昭和39年)、私にとって最初のゴジラ映画から10年後の第2作目の作品、『モスラ対ゴジラ』で本多監督と共に仕事をしたのである。722万人の観客動員だ。そして本多監督と最後の作品となった『怪獣大戦争』(1965年、昭和40年)である。その後私は1992年に懐かしの『ゴジラVSモスラ』の再映画に出演。そして遂にゴジラの最終作、『ゴジラ・ファイナルウォーズ』に佐原健二君、水野久美さんらと出演したのである。正に半世紀にわたって28本の作品を世に送り出したのである。その間、本多監督は第1作から15本目の作品までに何と8本の作品の監督をつとめられた。


20年の歳月を要していた。本多監督の手による8本のゴジラ作品の総観客動員数は3,900万人、1本平均約500万人。この数字如何に驚異的な数字であるかお判り頂けるものと思う。さて私にとって“ゴジラ”とは正に同期の桜といって過言ではない。然も常に記録的な営業成績を上げ、その知名度は地球の裏側にまで知れわたり、他の追随を許さない。本多監督はゴジラを時として人類の敵、破壊者として見なし、他方、地上における人類の無謀な軍拡競争による罪なき不幸な被害者としてゴジラを凝視し画面に描いてきたのである。最終回もまたゴジラに我々に背を向けてその姿を海中に没して行った。その行先は過去に静かに眠っていた海底の寝床なのか、或いは又、己を20世紀最大のヒーローに育ててくれた今は亡き恩人、製作者の田中友幸、脚本関沢新一、特撮の円谷英二、音楽伊福部昭、そして最大の理解者本多猪四郎監督の元へ辿り着き懐古に耽っているのかも知れない。先人達の冥福を心より祈るばかりである。
宝田明