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本多猪四郎監督エッセイ

ムービー夜話3

「ごもく映画通信」Vol.11(1991年9月)より

 

私と北海道

 私と北海道の関わり合いは、昭和の初期、旧制中学二年の夏休みに、当時陸軍軍医であった長兄が定期移動で旭川連隊の陸軍病院へ転勤になり、その引越しの旅に同行した時に始まる。丁度旭川駅前で、後にプロ野球で名投手として鳴らした、巨人のスタルヒン投手を見かけた。カスリの着物に兵児(へこ)帯、なら歯の下駄。カランコロン、颯爽と歩いて行く。現在の高校野球全国大会の前身である全国中等学校野球大会で、既にスタルヒンは北海道旭川に白系ロシア人の剛球投手ありと注目されていた。
 再び旭川を訪れたのは昭和十八年、東宝で『加藤隼戦闘隊』を製作することになり、加藤家の墓前に映画製作の報告と、映画の成功を祈る墓前祭挙行の為であった。勿論地元の人々への宣伝の為でもあった。一行は撮影所長森岩雄、監督山本嘉次郎、プロデューサー本木荘二郎、助監督小田基義、同本多猪四郎、それに主演の藤田進。
 映画『加藤隼戦闘隊』の製作は、新聞一面トップで、印度洋上で英軍機を追跡中華々しい戦死を遂げたとして加藤隊長の大きな全身写真と、軍神として二階級特進の記事が大々的に報じられた瞬間に決まったようなものであった。この写真を見た撮影所の誰しもが藤田進を思い浮かべたと云う程、二人はよく似ていたのである。これは藤田進にとっても、演技者として大抜擢。正に二階級特進であった。
 加藤家は明治時代、屯田兵として北海道旭川地区に入植した家柄であった。私達は未だ屯田兵時代の面影が其の儘残っている、あまりにも質素な建物に少年時代の加藤健夫の姿を重ね合わせて、その人となりを心の奥に思い描いていた。
 この旅行で私はもう一人忘れ得ない人物に出会っている。当時旭川に本拠を構え、映画の上映をはじめ、色々な芸能興業を取り仕切っている本間興業の社長である。本間社長の素晴らしい処はその実行力、行動力であった。戦後ソ連に初めて歌舞伎が渡ったのも本間さんの功績が大であると聞いている。
 本間さんの口癖に「なして!?」と云う方言があった。「どうして?」と云う意味である。撮影隊が困っていると云うことが本間さんの耳に入ると「なして!?」と云う言葉が終わらないうちに本間さんは走り出し、忽ち問題が解決する。その実行力について、或るロケ隊は国鉄まで止めて貰ったと云う話が残っている。
 もう一つ本間さんについての思い出は、たまたま全国ニューフェイス募集で、私は北海道班として札幌へ出張した。丁度旭川本間興業では手狭になった本社を、中々うんと云わない社長をやっと説得して本社ビルを建設中との事であった。それだけの話ならそれ程驚く事はない。驚いたのは本社に社長室がないと云うのだ。社長の意志が堅く頑として社長室を置かないと云う。曰く、「社長が椅子に座っていてどうしていい興業が出来るか!!」。そういう主義であると云う。映画で云えば直接観客に接する映画館主の上映現場である館(コヤ)への目配り、気配りの大切さを、本間社長は身をもって実践したのだ。映画は製作から観客に接する映画館のスクリーンまで本当に映画を愛する人達の心に支えられて、はじめて本当に観客の心に語りかけることが出来るのである。
 『加藤隼戦闘隊』については今でも関わり合いが続いている。前出の私の長兄は第二次世界大戦中に中国戦線へ軍医部長として赴任中、飛行機事故で戦死。今東京多磨霊園に眠っている。戦後兄の墓から一区画違いの処に、加藤隊長の墓が造営されたのに気付いた。丁度加藤隊長の墓前を通って兄の墓への道順になる関係位置である。私は兄の墓参りの折は必ず加藤隊長の墓前に黙祷を捧げる事にしている。
 山本嘉次郎監督もぐっと区画は違うが、ここ多磨墓地に眠っている。
 山本監督のこの作品に対する態度はあくまでも人間としての加藤隊長を描く事であった。唯々空の英雄として描くのではなく、毎日のように可愛い部下の戦死を見つめる隊長の苦しみ、指揮者としての反省等。印度洋上での戦死は燃料の不足を承知の上の出撃で、自ら部下の後を追って海中に突っ込んだと云う説をとった。山本監督はその人間の苦しみに焦点を合わしてラスト・シーンを考えていた。勿論当時の軍部は大反対であった。悲劇的で暗い結末だと云う理由であった。遂に上映も危ぶまれる状態になり、やっとの事印度洋の夕なぎに近い風景にタイトルを挿入する事で情報局を納得させ、公開の運びとなった。封切りでは大当たりであった。私はこの作品は戦争映画の傑作と思っている。
 北海道と私の思い出はまだつきない。また次の機会に…。

 
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