声


拝啓 本多監督のオフィシャルサイト、いつも楽しみに見させていただいております。(浦安市在住:T.K様)

2011年に本多先生が生誕100年を迎えられることもあり、私の思い出に残る、先生との記憶を紐解かせていただきたいと思います。
私が、先生にお会いしたのは、今から32年前、1978年の夏でした。私が先生の映画のファンということで、是非、お会いしてお話を伺いたいとお電話を差し上げ、訪問させていただいた時のことです。
今、振り返るに、随分失礼であり、また恐れ知らずのことであったように思われます。
小田急線の代田駅からご自宅の場所を確認させていただくと、先生が直接、成城駅からの経路を詳細に説明くださいました。
伺いますと、応接に案内され、奥様がお待ちいただいておりました。
しばらくしてアロハを着られた先生が出てこられ、歓談となります。

 当時、高校生であった私は、故郷の山梨から兄と友人を伴っての訪問でした。兄が、先生の大学の後輩であったこともあり、話は和やかに進み、先生のつくられた映画について、私のご質問や、また、当時の苦労話など、直接お会いしなければうかがえない貴重なお話をしていただけました。
先生は、当時、恐らく黒澤監督の「影武者」の準備に入られる頃ではなかったかと思います。
歓談が終わり、私が色紙をお願いすると、先生が書かれた言葉は「読好書説好話行好事作好人」でした。まさに、先生の優しくご誠実な人柄から選ばれた漢詩でした。
今でも、頂いたこの色紙とお言葉は私の大切な宝物です。帰り際に、私が記念に写真撮影をお願いすると、先生は、映画人ですから、私の携帯している幼稚なカメラの機能を察せられ、「玄関の外で撮ろう」とおっしゃられ、外まで出ていただけました。それは誠に感無量の一語につきる思いでした。

 先生に直接お会いし、その人柄を知るにつけ、先生の作品群がより胸に迫るものに感じます。非現実な世界でありながら、それが、日常をより感じ、見る人の心にいつまでも刻まれる、これが、本多演出の醍醐味です。それは、やはり本多先生の人となりがあればこそ、生まれ出るものだったのでしょう。本多あって円谷なし、円谷あって本多なし。恐らくお二人の人柄があって、世界映画史に名を残す特撮映画の至宝群をつくり出せたのだと思います。しかし、どの作品もファイナルカットは本多先生の束ねたシャシンなのです。

終わりに、私が今、映画全般に対し、厚い思いを持っている理由は、「本多猪四郎」と言う、巨人がいたことがすべての始まりなのです。